Oct 16, 2008

第3章の内容

第三章の標題「メル友を持ったニホンザル」には2つの意味がもりこまれている。1つめは、現代人のケータイでのメールのやりとりは、サルが仲間と交わす音声によるコミュニケーションと本質的に同一の機能を果たしているという事実。2つめは、IT社会の私たちのコミュニケーションはサルのコミュニケーションと変わりがないということを意味する。社会の高度情報化により、人間のコミュニケーションのスタイルは従来とは根本的に変わり、そして最終的に他社との関係の持ち方まで変化した。人間の会話能力はサルの会話のルールを引き継いで初めて進化したのだが、ケータイ文化がなぜサル的と言えるかというと、屋久島のニホンザルには、仲間から離れるという危険を防ぐために、「クーコール」と呼ばれる音声を出し合い、相手から応答があることによって仲間と一体であるという安心感を得ている様子がケータイを持って相手といつも交信していないと落ち着かない最近の若者のようすとそっくりだからである。ただ、ニホンザルの発する音声にはメッセージは含まれておらず、仲間の反応が聞こえなくなるという事態を防いでいる以上、やっていることは下等かもしれないが、最近の日本人と比べるとあまり大差がないのではないかということである。とりわけ若者の携帯電話でのメールのやりとりと似ている。先ほどまで会っていた相手と離れてすぐ、「元気?」などのあえて価値のない情報を交信している様子は、起きている間中、誰かと繋がっていないと落ち着かないニホンザルと同じである。著者が渋谷で行った調査によると、十代のメル友の数は成人より1ケタ多いことが分かった。英語のgroupに当たる言葉として、日本語には群れと集団という言葉がある。前者は普通、人間には使わないが、携帯電話の普及により、人間ですら群れ的にしか結びつかなくなり、それでいて充足した生活が出来るということを実証しているのである。

出典『ケータイを持ったサル』
著者正高信男
出版年2003年
出版社中公新書

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