Mar 2, 2007

2006 基礎ゼミ・レポート (2007.1提出) M.Y.

M.Y.さん

ジャーナリストになるには?

1. はじめに

現在の日本では一体どのくらい の情報が大衆の目にふれているだろうか。例えば新聞はNHKの調査によると国内の一世帯で読まれている新聞は平均1.04紙である。成人人口1000人あ たりの日刊新聞の発行部数は644.2万部である。また、新聞を世界で一番読まれている国はノルウェーの650.7万部に次いで世界でも日本は第2位であ る。日本や世界で多く読まれている新聞は高い信頼や支持をもたれている。日本新聞協会には地方新聞を含め108の新聞社が加入している。

新 聞だけでこれだけ多くの人が毎朝朝刊に目を通している、ということは雑誌や、インターネットでの情報やラジオ、テレビなどの放送業界での情報を入れるとか なり情報が我々に提供されていることになる。これらの情報を大衆の目に触れさせることを考えると、記事や番組の制作者は大変多いことがわかるだろう。新聞 社の従業員数は65,023人でそのうち編集部門は20741人である。女性の従業員は約8パーセントである(数字はNHKの調査で日本新聞協会・ 2005年版世界新聞協会「World Press Trend」より)。

今回はマスメディアによる情報発信において重要な役割をになっている「ジャーナリスト」に関してしらべた内容を書いていこうと思う。

2. ジャーナリストとは

一 般的に知られている「ジャーナリスト」という職業は、新聞社、放送業界、出版社で書物や雑誌、新聞などの形を整えることや細かな資料を集め目を通している 編集者、記者、寄稿者の総称のことである。テレビで目にするジャーナリストというものも「読売新聞デスク」や「○○大学教授」などが前につけられているこ とが多い。社会で起こる事件、現象をいち早く取材し、マスメディアへ記事、写真、取材ビデオを提供するのである。取材に行くときは基本的にスーツとネクタ イを着用し、カメラは必ず携帯する。取材時はメモを取りながら目、耳など五感をフル回転させて取材相手と向き合い取材を行う。

放送業界など で解説を行う仕事としてコメンテーターといわれるものとジャーリストと呼ばれるものの2種類があるが、この2つを混同してはいけない。そのはっきりとした 違いとはジャーナリストはジャーナリズムの仕事に携わる職業であるという点だ。ジャーナリズムとは広辞苑によると「新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどの情報 機関で時事問題を報道し、正しい解説や批評をすること」とある。それに対して、コメンテーターはその時事問題や起こった事柄によって持論や知識の中からコ メントするというものである。簡単にこれらの違いを説明するなら、コメントとジャーナリズムの違いは自分の意見ではなく、公平な批評、正しい解説をするこ とである。コメントは世間がどう思うかではなく、自身がどう思うかなどの意見が中心でありジャーナリズムとは世間での正しい解説を行い自身の意見を中心に は発言されていないはずだ。少なくともされているとしても内容の最後の方につけたされているだけのものがほとんどである。

ジャーナリストという職業は海外では非常にステータスの高いものと考えられている。なぜならこの職業は高い専門性を必要とするからである。正しい知 識を身につけ、情報をしっかりと読み解く力がなければこの職業で成功できないことも多いのである。マスメディア業界は華やかな世界だと思われているようだ が、実際はそんなことはない。例えば給料が高そうというイメージがあるが、新聞社やテレビ業界での初任給は約20万程度で、その仕事を長く続けていること で給料は上がる。また、特ダネを手に入れた場合も少し給料に付け足される場合もある。

しかし、お金ではなく市民の心を動かすことができる。 「ペンは剣より強し」というが徹底的に取材し物事の本質を暴き出すことで大衆へ真実を伝える仕事で非常に影響力がある。だからこそ、間違った報道をしない ために念入りにチェックが行われ、やっと次の日の新聞や雑誌、テレビやインターネットのニュースとして配信されるのである。

また、ジャーナリストにはいくつもの種類がある。経済、政治、スポーツをはじめとする料理、軍事、国際、科学など分野は様々である。最近ではファッションについての解説にファッションジャーナリスト、文学や映画についてのジャーナリストも存在する。
これらの種類のジャーナリストがすべて新聞社やテレビに所属しているわけでなく、フリージャーナリストというタイプのジャーナリストもいる。フリージャーナリストとは会社に入社しているわけではなく、記事を書いて会社に売り込み原稿料をもらうのである。

ジャーナリストはほんの一部の分野だけでなく多くの分野に広げているのである。

3.ジャーナリストになるには?

それではどんな人がジャーナリストに向いているのか見ていこう。下に記した人だけがジャーナリストに向いているわけではないが職業診断のサイトに記載されていたひとつの例を紹介する(「ナニなるNTE」)。
  • 好奇心が強い
  • 正義感が強い
  • 体力には自信がある
  • 飽きずにこつこつやるタイプだ
  • 何事もとことん追求したい
  • 文章を書くことがすき
上 記に記したものの解説をしておくと、「好奇心、正義感が強い、何事もとことん追求したい」というのは物事の本質を捉えるために必要なことである。「体力に 自信がある」というのは、ジャーナリストとは必ずしもゆっくりと仕事が出来るわけではない、取材に行ったあとすぐに記事をその日の夕方までに提出しなくて はならない場合や、速報が入ったために朝刊の一面が差し替えられるというのもあるので睡眠時間や休息を十分にとることができないこともある。だからこそ体 力が必要なのだ。最後に「飽きずにこつこつやるタイプ」と「文章を書くのがすき」というのはジャーナリストだけでなく、作家をはじめとする文章を扱ういろ いろな職業に必要である。これは一例にすぎないので必ずしもこれがすべて正しいわけではないが本質として必要なのである。

ジャーナリストになるには、次のような進路を選ぶ必要がある。

図1の「進路」の内容を簡単に説明すると、ジャーナリストになるには、 高校を卒業後スコミの専門学校を経て新聞社、出版社、テレビ局に入社してジャーナリストになる方法と、高校を卒業した後に大学で学んだ上でマスコミの専門 学校に入る方法か、または大学を卒業後そのままマスコミの世界に入りジャーナリストになる方法の二つがある。

高校
専門学校
大学

図1 進路

一般的には4年生大学を卒業した人が多い。なぜならそれほどマスメディアでの入社試験とは難しいのである。図1をみると、どちらかというと専門学校 に行ったほうがすぐにジャーナリストになりやすいように見えるが、ジャーナリストには専門的知識が必要である。大学に行っていろいろな知識を身につけてか らマスメディアの世界に入るのも決して遅くはない。むしろ、大学での知識を生かした方がその専門分野の質の高い仕事を与えられやすいと考えられる。また、 ジャーナリストとは文章を書く仕事であり、文章力は大学で学んだ者のほうが高いことを会社は知っているのだろう。

従って、ジャーナリストになりたいと思うなら、高校卒業後すぐに専門学校に進むより大学で文章力を鍛えることができるはずだ。

そ れではジャーナリストを養成している学校をさがしたところ、ジャーナリストが目指せる学校次の通りである。調べたところによると大学では6校でレイクラン ド大学ジャパン・キャンパス、ネバダ・カルフォルニア大学国際教育機構、Japan(NIC)、海外250大学留学センター、東海大学、文化女子大学であ る。短期大学では1校で生得大学短期大学である。専門学校では4校で日本写真芸術専門学校、東京工学院専門学校、CUP JAPAN サッカーカレッジ、 ビジュアルアーツ専門学校大阪などである。

さて、ここまではジャーナリストになるまでの経緯を簡単に説明したが、ジャーナリスト をはじめとするマスメディア関係の仕事に入るには非常に難しい試験がある。就職試験は幅広い知識教養、文章力、基礎的語学力を測るために一般教養、時事問 題、外国語、などの筆記問題、国際ニュースに対してどう思ったかの面接、作文は重視されている。このような試験に合格しない限りこの職種にはつけない。こ れこそマスコミが狭き門だといわれている所以でもある。

大変な試験に合格してもまだまだすることは山のようにある。一人前のジャーナリストになるに最も大切なことは体験をつむことだ。多くは研修期間を経て各現 場に配属される。テレビ局の報道部や新聞社に入ったばかりのときは、「サツまわり」と言われる警察や司法の取材を担当することが多く、地方支局での勤務だ けでなく、本社で社会や経済や文化やスポーツなどの各部に所属し、一定ジャンルに絞って取材活動を行う場合もある。
また、文章を書くことも経験をつむうちのひとつでもある。人の文章、つまり本や新聞や専門書を読むということも経験である。
 
そ れではジャーナリストの一日を見てみよう。2006年7月10日にNHKで「あしたをつかめ平成若者仕事図鑑」という番組の中でジャーナリストの一部であ る地方新聞記者の一日が紹介されていたのでジャーナリストの生活がどんなものか表にまとめたのが表1である。地方新聞社に勤める堀口さんは朝に出勤してか らの動きはきっちりと時間が詰められている。地方新聞で働く人の例なので放送業界とは多少異なるところがあるが、基本的な内容としては報道業界では同じよ うに分刻みに仕事がつめられており非常にハードである。

表1 ジャーナリストの一日

出勤
7:00 8:00
警察庁顔出し
記者クラブ
2時間30分 10:30
取材2件
2時間30分 13:00
出稿3件
3時間30分 16:30
警察署顔出し(2署)
1時間30分 18:00
出稿2件
支局長と内容検討
3時間45分 21:45
発生もの
取材
現場出稿
2時間15分 帰宅
警察署へ警戒電話
10:00~10:30

4. 結論

これまでに述べたことから、ジャーナリストという職業は基本的にはマスメディアへの記事、写真、取材ビデオなど報道に 携わる内容のものを取材しマスメディアに提供する職業である。コメンテーターとは違い、自身の持論を入れることはなく世論などを含むジャーナリズムに基づ いて発言、解説をすることである。そのジャーナリストになるには一般的には4年生大学を卒業後専門学校に行くか、新聞社や出版社の入社試験を受けることで ある。この入社試験では一般教養や時事問題や外国語への筆記問題、国際情勢やニュースに対しての面接や小論文などがある、合格することでジャーナリストと しての一歩を踏み出すことができる。この時点ではジャーナリストとしてはまだまだ未熟だが、取材などで経験をつむことでジャーナリストとしてのスキルをあ げることができる。

ジャーナリストは世界でも高い評価を得ており、日本と同じように4年生大学を卒業したもの、又は大学院を卒業した高い知 識を持った人が多い。だからこそステータスの高い職業とされている、今後は世界中のジャーナリストの扱われ方と日本のジャーナリストの扱われ方がどのよう に違うのか、どのような過程でこの職業に就くことができるかを詳しくしらべていきたいとおもう。


参考文献
「あしたをつかめ平成若者仕事大辞典」NHKの放送
http://www.nhk.or.jp/shigoto/zukan/090top.2html
「キャリアマトリックス-職業情報(放送記者)」http://cmx.vrsvs.net/[/CCS.i01.bady.php? occode=11102&svsmode=s&flags=000
「知りたい!なりたい!こんな職業」 http://www.nikkeiwoman.net/job/shiritai/ job.f67.html
「ナニなるNTE」http://naninaru.net/ 2007年2月1日
「マスコミに入る」AERA MOOK
『World Press Trend』日本新聞協会・2005年版世界新聞協会

2006 基礎ゼミ・レポート (2007.1提出) K.T.

K.T.さん

固定化したファッション志向

1.はじめに

それぞれの県では、地域によって 有名なものがいくつかある。その地の「名産物」といったものだ。私たちの身近な「神戸」でもそれはいくつかあげる事ができるだろう。例えば、「神戸プリ ン」、「神戸北野」、「神戸の夜景」で有名だ。その他に「神戸」といえば、「おしゃれな地」という印象が他の地にくらべて比較的強い傾向がある。そこで今 回、その名のごとくオシャレな地神戸、での最近の流行ファッションについて調べた。数年前から雑誌等の若者の間では「神戸系」という一つのファッションの 形態をとっており、神戸=「神戸系ファッション」という印象がある。それは、上品なファッション志向の事をいう。また「神戸系ファッション」同様なファッ ションスタイルをとっている地があるので、その地についても調べた。「名古屋」である。両者の共通点は、「エレガンス」志向な服装、そして髪型は「巻髪」 をする、という点にポイントをおいてファッションスタイルを確立している。

2.神戸

(1) 神戸人の気質と歴史
神戸はアパレル産業の他、ケミカルシューズ、真珠加工、貿易といった 周辺分野も含めたファッション産業を長く特徴的産業としてきた。また、国際貿易港の後背地として、いちはやく西洋文化を取り入れ発展してきた歴史がある。 このように、神戸は古くからの港町であったため、西洋文化(洋書、洋菓子、洋楽)がどこよりもいち早く手に入れる事ができた。このような背景を持った神戸 に住む人々は、どこの地よりもファッションに敏感で西洋化、近代化された上流気質が根付いており、ファッション分野だけでなく、色んな面でも昔から近代化 していたため、ハイソサエティな気質を持ち合わせているのだろう。
 
(2) 神戸系ファッションの流行
神戸 系ファッションというものは、2000年初頭に世間で取り上げていわれるようになった。しかし、それは親子代々から受け継がれてきたもので、2000年初 頭に急に開発されたものではない。西洋化、近代化した歴史的背景の下、他の地とは違った一歩進んだ上流意識が芽生え、上流な洋服を神戸(特に山手エリア) に住む富欲層の女性が好み、まとうようになった。上流な服とは、エレガント(上品)を基調としたスタイルだ。比較的ブランド意識の強い洗練されたファッ ションの事だ。ここ神戸ではそのような上流なファッションスタイルが存在し、今でもなお受け継がれている。それを2000年初頭から女性誌がこぞって「神 戸系ファッション」として取り上げた事を機会に全国的に流行し、着こなしの一つとして認識されるようになった。

(3) 2000年初頭からの神戸系ファッション
●上品 ●エレガント ●保守的 を軸に、2000年初頭からこの3つの要素を取り入れた神戸特有な洋服ブランド・ショップが現れた。例えば、クイーンズコート、VICKY、クレイサスと いわれるブランドだ。これは神戸発のブランドで上品、エレガント、保守的この3つの要素を基本とした、いわばОLスタイル、その特徴はワンピースはAライ ン、パステルカラーを中心とした上品なニットアンサンブル、スカートはタイトスカート、といった、コンサバスタイルだ。それぞれ特に変化はなく、多少のデ ザイン違いで基本デザインとしては、図3のようなデザインだ。

図1(「神戸系って?」http://www.kobe-np.co.jp/rensai/kobe/kobe2.htm)

図1 は、2000年初頭の神戸系ファッション特有の服装だ。神戸特有ブランド(クイーンズコート、VICKYなど)の保守的(コンサバ)な服を学生からОLま でみんなが揃いも揃って着る、その着こなし方は、ブランドバック(エルメスのエールバック、シャネルのバニティなど)と神戸特有ブランドの紙袋との二個持 ちをする、さらに足元は、カモシカのような足を演出するなどとして10センチ以上のピンヒールの靴を履く(神戸、名古屋などで多数の店舗を展開する、 COMEXなどのブランドが有名)というのが当たり前であった。髪型はもちろん巻髪が基本であり、ストレートな髪型だと偏見を持たれるというように当時 (2000年初頭)は全盛期であり、ファッションスタイルがこの保守的ファッションに固定化していた。

現在でもこの固有化されたファッションスタイルはまだ残存しており、世間ではこの神戸特有スタイルをもっと全国に広めようと様々な動きが見える。例 えば、神戸系ファッションを見にまとい、雑誌に掲載され紹介する大学生、「読者モデル」といわれる若者の力で、新たなブランドショップを作ったり、雑誌等 がその読者モデル達をキャラクター化し、売り出すなどといった動きだ。そのキャラクター化された、いわば神戸のファッションリーダー、となる三人組 (JAM)が現在有名であろう。彼女達は自分達自ら、ブランドショップを立ち上げ、自ら雑誌に載り、服を売る。彼女達のチーム名「JAM」は、それぞれの 名前の頭文字を合わせて、JAMなのだ。ジュン・アミ・ミサコという名前だ。こういった動きのほかにまた違ったアピール方法として、「神戸コレクション」 といって念に数回開催されるファッションショーを新たな展開としてとっている。「神戸コレクション」は、神戸のファッション文化を全国に、世界に届けた い、そんな神戸の文化、ファッションを全国の町に広めるために生まれたファッションショーなのだ。神戸発のアパレルメーカー(クイーンズコート、ビッ キー、クレイサスなど)、セレクトショップ(その一つが苦楽園に店を構えるポエシアというお店だ。日本の商品のみならず、海外のブランドも多く取り扱 う)、若いデザイナー(読者モデル達のオリジナルブランド)、などの神戸の女性に愛される国内外ブランドを招いて、2002年秋冬から、年に2回のペース で開催されている。

3. 名古屋

(1) 名古屋の主要産業
東京、大阪、横浜に次ぐ第四の都市。工業製品出荷高、名古屋港輸出 額、自動車生産高、自動車所持率、ショッピングセンターの数など日本一だ。また、自動車と並んで工業製品出荷高一位の象徴的製品、「パチンコ」のメッカ、 本拠地である。ここからも、神戸同様に他の地よりも、進展している一面が分かるだろう。
 
(2) 名古屋人の気質
基 本的に倹約し、貯蓄に励む。節約するところは節約し、使うところは使うという「ケチ」かつ「見栄っぱり」なようだ。「ルイ・ヴィトン」の名古屋店が世界で もトップクラスの売上である。ただ見栄っぱりなので、形のないものにお金を投入する気はさらさらなく、例えば「ルイ・ヴィトン」にしても、LとVが分かり やすく交差した商品以外はあまり売れていないらしい。
 
(3) 名古屋嬢
名古屋には「名古屋嬢」という呼ば れる女性達が存在している。名古屋でも神戸と同様、昔から上品、エレガント、保守的(コンサバ)を基盤としたスタイルをとった上流志向のファッションスタ イルをとっている。2000年初頭の神戸系ファッション流行と共に女性誌では名古屋のファッションスタイルにも注目をおく。女性誌では神戸のファッション を「神戸系ファッション」と名付けて取り上げたように、名古屋では名古屋のお嬢様の上品なファッションに注目をおいて、「名古屋嬢」などと名付けて取り上 げるようになる。
 
(4) 名古屋巻き
名古屋嬢のファッションと言っても、服装の基本は神戸発の神戸系 ファッションと同じだ。唯一違うのは、「髪型」である。髪型も巻髪は巻き髪だが、名古屋特有の巻き髪を生み出す。生みの親は、美容室「BLANCO南青 山」の土屋さんという人だ。その髪型の特徴は「神戸巻き」のクルクルの強めのカールに比べて、内巻きでクルクルに巻きすぎず「あくまでも自然」がポイント だそうだ。内巻きは女性の優しさを演出するらしい。

図2 (「アナウンスルーム」http://www.ctv.co.jp/announce/personal/zoom/2001/02/0109.html)

こ の名古屋嬢ブームに乗り、神戸同様、名古屋でもその特徴をアピールしようと人々は考えた。その結果、りかちゃん人形では「名古屋嬢りかちゃん」なる商品も 発売され、テレビでも、名古屋をテーマとしたドラマ「加藤家へいらっしゃい。名古屋嬢」を報道するなど、ワイドショーで度々、名古屋嬢が名古屋のキャラク ターとして、取り上げられ、注目する動きが見られた。


図3(「やねの上のかざみどりりかちゃん」http://naosaetyan.blog65.fc2.com/blog-entry-65.html)

図3は2003年秋に、名古屋松坂屋&タカラ&JJのコラボレーションで発売された第1体目だ。ネット販売では10分で完売したらしい。店頭販売では整理券が配られ、長蛇の列ができた。髪型も巻き髪をしていて、衣装は7種もあり、値段は1万円で発売されたようだ。

 

4. 現在の若者のファッション

このように、2000年初期からの神戸、名古屋のファッションスタイルを見てきたが、 時代の移り変わりと共に、ここ2年前くらいからは「海外セレブ」というハリウッドスターのファッションスタイルに注目をおきようになり、神戸系ファッショ ン、名古屋嬢ファッションといった保守的ファッションは今でもなお存在しているが、2000年初期の大ブームまでは達さなくなってきた。海外セレブとは、 ハリウッドで活躍する女性人の事を指す。例えば、若者に人気があるのは、パリス・ヒルトン、ニコール・リッチー、リンジー・ローハン、主にこの三人の ファッションが注目視されている。1人目のパリス・ヒルトンが海外セレブ注目の第1任者といっても良いだろう。彼女はおよそ1年前、大手ホテルチェーンの ヒルトンの娘で、ニッキー・ヒルトンと共に「ヒルトン姉妹」と呼ばれ、二人組みとして注目されていた。それからごく最近になり、単独で活躍するようにな り、ファッション歌手ライオネル・リッチーの養女にあたる。彼女は最近、過激なダイエットに励み、見事イメージチェンジをはかり、昔に比べどんどんと人気 上昇中スターだ。3人目、リンジー・ローハンは映画「フォーチュン・クッキー」で人気を得、健康的な肉体でここ最近絶大なる人気をはかる。彼女たちの注目 で、一気にここ数年前から、若者の間では、保守的コンサバファッションよりも、カジュアルスタイルのほうが人気である。海外メーカーのブランドが多く日本 に輸入され、海外ブランドを取り揃えたセレクトショップが増加中である。
そのセレクトショップに圧され、保守的スタイルの神戸発ブランド(クイーンズコート。VICKYなど)は、人気低下してきている。現在は海外ブランドの他、カジュアルを基調とした、日本ブランド(SLY、Moussy)といったブランドも流行中だ。

図4                     図5 

図4は、右がパリス・ヒルトン、左はニコール・リッチーだ。図5は、右がニコール・リッチー、左はリンゼイ・ローハンだ。

5. まとめ

こ のように神戸、名古屋では上流意識した、保守的なファッションスタイルが確立され、今でもなお以前よりは少なくはなったが基本的にこのようなスタイルの女 性が多い。現在の学生にもいえる事だが、「道を歩けば右も左も同じ服」をしている。確かに皆と同じような服を着れば安心感はあるが、それでは面白くない。 ファッションというのは自由なのでこのようなコンサバティブに左右されず、もっと冒険したファッションスタイルや自分独自のファッションをして楽しんで欲 しい。キレイな色を着れば、気持ちも明るくなるだろうし、人と違ったものを着れば自己流でおもしろい。神戸、名古屋の保守的なスタイルは、あまりにも固定 化しすぎていて、独自性がなく、おもしろくないファッションだと私は思う。

2006 基礎ゼミ・レポート (2007.1提出) K.T.

K.T.さん

韓国の食文化について

1. はじめに

韓国に旅行に行って飲食店に入った 時、多くの韓国人があぐらをかいて食事をしていた。「何て行儀の悪い人たちなのだろう」と思ったが、後から調べてみるとその理由がわかった。食事中の座り 方だけでなく、その他にも日韓では食事作法や料理に関して、少し異なる点があるようだ。

2. 日韓の食事マナーについて

次の表は日韓の食事マナーを表にまとめたものだ。

表1:「日韓の食事マナーについて」
韓国 / 日本

器の持ち方
器は置いたまま / 茶碗は片手で持ち上げる

床での座り方
あぐら / 正座

箸置き
箸おきはなく、お膳のふちに箸をかける / 箸置きに箸を置く

おかずとご飯の順番
おかずとご飯を交互に食べる / おかずとご飯を交互に食べる

目上の人とお酒を飲む時
横を向いて、お酒を飲んでいる姿が相手から見えないように飲む / 向かい合って飲む

食事の時のあいさつ
「いただきます」「ごちそうさまでした」に相当するいい言葉はない / 食べるとき…「いただきます」 食べ終わったとき…「ごちそうさまでした」

もてなしの料理を残す
わざと残そうとする マナー違反
(『韓国の食』より)

日本では茶碗は片手で持ち上げて食べるのが一般的である。しかし『韓国の食』によると、韓国では器を持ち上げて食べるのはマナー違反である。そのためご飯も汁もスプーンで口まで運ぶ。

『韓 国の食文化を知ろう!!』によると、昔は日本でもスプーンを使って食事をしていたそうだ。しかし、日本では木製の食器が、韓国では鉄や陶磁器の食器がそれ ぞれ発達していった。日本では、木製の食器は比較的軽いので持ちやすく手にフィットするように改良され、直接口に運んで食べるようになったためスプーンで 食べるという習慣が消えていった。

一方韓国では鉄や陶磁器が発達していったため、今でも器を置いたままスプーンで食べるというスタイルが残っている。

  また床で食べる際の座り方も日本と韓国では異なる。日本では正座をして食べる。一方韓国では、お膳の脚が少し高く、床とお膳の間に膝を入れるようにしてあ ぐらをかいて食べる。正座は韓国では「罪人の座り方」というイメージが残っているし、「そんなに気を使わなくていいから、気楽に美味しく食べましょう」と いう意味もある。また器を持たないと、正座だと自然に食べる姿勢が悪くなってしまうので、足を崩して食べるのだとも言われているようだ。

そして日本では一般的な箸置きは、韓国にはない。箸を下ろすときは、二本そろえて、持つところがお膳の右端の外に出るようにそっと置く。スプーンと箸の両方を一緒に持たない、という点では日本も韓国も同じである。

ご飯とおかずの食べ方は、韓国も昔の日本と一緒で、ご飯とおかずを交互に食べる。ご飯の代わりにお酒の飲む際も同じく、おかずを食べてお酒を一口飲み、おかずとお酒を繰り返す。

目上の人とお酒を飲む際、日本では向かい合って普通に飲む。しかし韓国では横を向いて相手からお酒を飲んでいる姿が見えないように飲む。この光景は儒教の考え方が残る韓国では、よく見られる。

日 本では食べるときに「いただきます」、食べた後に「ごちそうさまでした」というあいさつをする。韓国では「いただきます」は普通「チンジ・チャプスセ ヨー」と言う。自分より目下の者にそう言われた場合、「分かった」という意味の「オーニャー」とこたえる。お客様にそう言われた場合は「チャルモゲスムニ ダ」とこたえる。「ごちそうさま」は「チャルモゴスムニダ」という。だがこれは「いまからやります」という意味の「チャルモゲスムニダ」が過去形になり、 「よく食べました」という意味に変わっただけである。韓国では「ごちそうさま」に相当するいい言葉はないそうだ。

また日本では、人をもてなすときに出される食事を残すことは、失礼だという考え方が普通だ。従って出された食事は残さず食べる。

し かし韓国人は、出された食事をわざと残そうとする。『韓国の食文化雑学』によると、韓国では人をもてなす食事は、料理の種類と量が大切であるとされてい る。そのため、残さず食べてしまうということは「料理の種類と量が少なかった」というとこを意味してしまうのである。

3. 韓国人と「儒教」

以前、日本人も出演している韓国の映画を見た。年下の日本人が、年上の韓国人の前でたばこを吸うシーンが あった。日本人がたばこに火をつけた瞬間、韓国人は「ここは韓国だ!!」と怒る、というシーンだった。私はそのシーンを見ていて、なぜ韓国人がそこまで怒 るのか理解出来なかった。

日本ではほとんどの人が、道端や年上の前でなど、場所や環境にあまり関係なくたばこを吸う。しかし韓国では、日本と同じではない。

『PUSAN NAVI』によると、韓国人のあいだには儒教の教えが根強くのこっているそうだ。そのため、韓国人は日本人より、両親や先生それに祖父母など、目上の人を 敬って大切にしている。お酒を飲むときや、タバコを吸うときだけでなく、「目上の人が料理に手をつけてから自分も食べる」など、目上の人をたてる行為がい くつかある。

4. 日韓の料理について

「韓国」と聞くと、一番初めに考えるのが「キムチ」だろう。そのキムチは、やはり韓国を代表する食べ物のようだ。

日 本では、キムチはご飯のあてにちょっとだけ食べる漬け物のような感覚で食べられている。しかし『韓国の食』によると「キムチはたいへん中心的な意味を持っ て」いるらしい。お膳にのるキムチは季節によって変わるが、お酒・ご飯・お粥の時それぞれに合うキムチが3種類はつく。だいたいは、水がたくさんある水キ ムチ(ムルキムチ)・白菜だけをつけたキムチ(ペーチュキムチ)・大根だけをつけたキムチ(カクトゥギ)が基本的なものだ。またキムチは漬け物として食べ るだけでなく、それらを利用して野菜がとれない冬の間のおかずを作っている。

日韓共にキムチを漬け物として食べるのは同じだが、韓国ではキムチをおかずに利用したり、「なくてはならないもの」を考えていたりする点では大きく異なっている。

韓 国に旅行に行った時驚いたことは、韓国ではどんな飲食店に入っても、注文しなくてもキムチが付け合せとして大量にでてくる、ということだ。さらにそのキム チはおかわり自由で、韓国人は何度もおかわりをしていた。日本でもたくわんや福神漬けが付け合せとして出てくるが、それらをおかわりする人はほとんどいな い。このことからも、韓国の人たちにとってキムチは「なくてはならないもの」なのだと実感した。

そして日本でもなじみのあるピビムパブ(ビビンバ)も、日本と韓国では食べ方が少し違うようだ。日本人と韓国人の食べ方で一番違うのは、混ぜ方であ る。韓国人は、ご飯と上の具を完全に混ぜる。『KOREA REPORT』によると、韓国人は「混ぜる」という行為が好きなのか、カレーを食べるときでさえ、ルーとご飯をビビンバを食べる時のように完全に混ぜて食 べるようだ。それに対して日本人はご飯と上の具をしっかり混ぜずに食べる。

日本人はご飯粒がつぶれることを好まないので、かき混ぜすぎることを避けるのかもしれない。

また日本でよく目にするピビムパブは、ナムル(山菜などに火を通しあえたもの)以外にご飯の上には牛肉や卵など様々な具がのっている。しかしそれらの具は豪華にするために入れるのであって、一般の家庭ではナムルだけしかのせられていない。

日本では大晦日には年越しそばを食べるのが一般的だが、韓国ではそれに相当するものがピビムパブである。台所にあるものをきれいに食べてしまうために、大晦日の夜中にピビムパブとしてみんなで食べる。

5. キムチの歴史

キムチは韓国人にとって「なくてはならないもの」だが、そのキムチは一体どのように出来上がっていったのだろう。

『キ ムチの雑学』によると、キムチとは「主原料である塩漬白菜に様々な薬味(粉唐辛子、にんにく、しょうが、ねぎ、大根、魚介の干物など)を混合して漬け込 み、製品の保存性と熟成度を確保するため低温で乳酸を生成させ発酵させた韓国の漬物」のことである。韓国語でも、「キムチ」は韓国の漬物の総称である。

農 耕生活が始まったときから、主食となった穀物の栄養バランスをとるため、ビタミンとミネラルが豊富な野菜を食べるようになった。しかし、寒い冬には野菜の 栽培が難しかった。そのため冬場の食生活に備えて、冬になる前に栽培した野菜を長期間保存するため、塩蔵という貯蔵方法が自然と開発されていった。

初 期のキムチは単なる野菜の漬物に過ぎなかった。12世紀からは各種の香辛菜類を加えた独特のキムチが誕生し、16世紀に日本から導入された唐辛子が18世 紀からはキムチに本格的に利用され始めた。19世紀には中身がぎっしり詰まった白菜の栽培が普及し、現在のキムチの姿になった。

世界でもヨーグルトやチーズなどの発酵食品は多いが、野菜を利用したものは多くはない。韓国でキムチが発達した理由として次の3点が挙げられる。

  • 農耕生活を基本としていた先祖たちが野菜を好んで食べた
  • 水産物の塩蔵技術が優れていて薬味として幅広く利用された
  • キムチ用の白菜が広く栽培された

6.おわりに

日本と韓国はとても近い国で、数多くの韓国料理が日本で親しまれている。しかし実際韓国に行ったとき、マナーを知ら ずにとまどったことをよく覚えている。もし何も考えずに食事をして、韓国の伝統を無視するようなことがあれば、韓国人の中での日本人の印象が悪くなってし まうかもしれない。その国の伝統や歴史を知ることは、その国をよく知るために重要なことだ。
「なぜこれをしてはいけないのか」や「なぜこのような形式で食事をするのか」など、理由を知ればもっと韓国料理を楽しめるだろう。


参考文献
『韓国の食』 黄慧性・石毛直進 1988年5月10日

参考ウェブサイト

『韓国の食文化を知ろう!!』 2006年12月7日11時30分
 http://love.u-aizu.ac.jp/~sccp/korean/present002/syokubunka.htm
『ムングンファの庭』 2006年12月7日11時50分
 http://www.wattakatta.com/index.html
『キムチの雑学』 2006年12月7日11時30分
 http://www1.megax.ne.jp/pusantei/jp/korean-food/jk-02-kimuchi.htm
『KOREA REPORT』 2006年12月10日20時15分
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『韓国の食文化雑学』 2006年12月20日10時00分
 http://www1.megax.ne.jp/pusantei/jp/korean-food/jk-01-korean-food-culture.htm
『PUSAN NAVI』 2006年12月20日10時10分
 http://www.pusannavi.com/index.html

2006 基礎ゼミ・レポート (2007.1提出) K.Y.

K.Y.さん

靖国神社参拝問題

1.はじめに

靖国神社とは、明治2年に明治天皇が戊辰戦 争で命を落とした人たちの霊を祭るために東京招魂社として創立され、現在では私的宗教法人として成り立っている神社である。現在この神社には、幕末から太 平洋戦争までの軍人や軍属の戦没者の247万人が本殿に奉られている。昨今小泉前首相が数多くの批判を受けながらも靖国参拝の意思を断固として曲げなかっ たことから、再び首相の靖国神社参拝が政治問題として注目を集めるようになった。それではこの首相の靖国参拝は何が問題なのであろうか。

2.「政教分離の原則」の視点でみる靖国問題

まず、「政権分離の原則」に違反するのではないかという事が挙げられる。日本では政教分離という文言を直接用いた条文は存在しない代わりに、日本国憲法第20条にこのような事が明記されている。
  1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

この中の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という観点から考えると、内閣総理大臣が公言して特定の宗教施設である靖国神社へ参拝するのは、政教分離の原則に違反している事は明らかである。

ま た靖国神社は、戦前のいわゆる「国家神道対策」もとづいて、国が所管する神社として発展した神社であったが、敗戦後の日本を占領することになった GHQ(連合国軍総指令部)によって出された「神道指令」により、靖国神社は国とは独立した一宗教法人となった。現在一宗教法人となっている靖国神社もこ の政教分離の原則から考えると、国との関係を完全に断ち切らなければならない。しかし終戦後、厚生省が戦没者を個別審査して祭神名票を作成していた事実が 存在していたなどとして、完全に切れているとは言いがたい。それではなぜこのような法律があるにも関わらず、国と宗教との癒着が未だ存在したり、首相の靖 国参拝が訴えられても、ほとんどが棄却されるのだろうか。

その理由のひとつとしておそらく、同条1項に明記されている「信教の自由は、何人 に対してもこれを保障する」という事が関係してくるのだろう。つまり国の機関に関わる人物は特定の宗教に入れ込んではならないにも関わらず、現在の日本国 内において国民はもちろんのこと、政治化の思想や信教の自由を制限することも不可能であるという事だ。この矛盾が首相に「私的参拝」という言い訳を与えて しまい、靖国参拝問題がより複雑になるのである。 しかしこの政権分離に関する問題は日本だけで起きているのではない。例えばアメリカでは大統領が裁判や大統領就任の際に聖書に手を置き、宣誓を行っ ている。これは一部では政教分離に違反するのではないかという意見が出ている。しかし一方で、ブッシュ大統領がこれに配慮をしてクリスマスの際 「Merry Christmas!」ではなく「Happy Holiday!」と演説したことが、キリスト教右派に批判されたという事もあった。これらの事から分かるようにこれは、日本以外の国でも政治権力と宗教 との係わりについてどのような折り合いをつけるかについて未だに議論が続いているほど難しいテーマなのである(Wikipedia 政教分離原則)。

以前この政教分離の原則に違反しているのではないかという記者から投げかけられた質問に対し小泉氏はこのような事を言った。
私は伊勢神宮にも毎年参拝しています。その時には何名かの閣僚も随行しています。別に私は強制していません。そして、皆 さんの前で神道形式に則って伊勢神宮に参拝しています。その時に憲法違反という声起こりませんね。何故なんでしょうか(小泉総理インタビュー 2006年 8月15日)。
確かに何故マスコミはこの靖国参拝ばかりをクローズアップさせるのか。それはやはり靖国参拝問題の中で最も大きなテーマとも言える、A級戦犯が祀られているということが関係してくるのかもしれない。

3.「A級戦犯」の視点でみる靖国問題

それでは、次にこのA級戦犯について考えていきたい。A級戦犯とは極東軍事裁判(東京裁 判)において最も重い罪とされる「平和に対する罪」として処罰された太平洋戦争の中心的指導者である。「1946年4月29日の極東軍事裁判で、絞首刑7 人(東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将,土井原(どいはら)賢二陸軍大将,松井石根(いわね)陸軍大将,木村兵太郎陸軍大将,武藤章陸軍中将,広田弘毅 (こうき)元首相=1948年12月23日に絞首刑)・終身禁固16人・禁固20年1人・禁固7年1人」(松山大学 田村ゼミ)の判決が出され、サンフラ ンシスコ平和条約で日本はこの結果を受け入れた。

しかしこのサンフランシスコ平和条約を受け入れ日本が独立を回復した後、戦犯の釈放運動が 全国で起こり、その嘆願署名は4000万人を超えた。その後A級戦犯は1956年までに釈放され、その中には閣僚や、総理大臣にまで就く者もいた。 1966年に厚生省はA級戦犯の「祭神名票」を靖国神社に送付したが、当時の宮司、筑波藤麿は天皇家に配慮し差し止めた。この宮司が急逝した後、1978 年に新たに就任した宮司、松平永芳が宮司預かりとなっていた「合祀名簿」を昭和天皇のもとに持っていき、最終的に彼らは同年10月 から靖国神社に“昭和受難者”として合祀された。この時、このA級戦犯合祀が後に政治問題へと発展する事を誰も危惧しなかったのだろうか。

む しろその当時、東京裁判自体を否定しA級戦犯の名誉回復を求める動きが強かったという可能性が高い。例えば読売新聞(2005年6月9日 付け)によると、戦時中に大東亜相を務めた青木一男がA級戦犯合祀について「合祀しないと東京裁判の結果を認めることになる」と強く主張したとのことだ。

これらの事も受け現在、靖国神社に祀られている14名のA級戦犯については様々な物議が醸し出されている。今年2006年、終戦記念日である8月 15日に小泉首相が靖国神社参拝した後、報道関係者はほぼ一斉に参拝についてアンケートをとった。その結果によると首相の「参拝を支持する」と答えたのは 読売52.6%、毎日50%、共同51.5%であった。これに対し「参拝を支持しない」は、読売39.1%、毎日46%、共同41.8%にとどまった。そ の中での「支持をしない」の理由として、いずれも「中韓両国との関係悪化」と「いわゆるA級戦犯合祀」が大半を占めたのである(Infoseekトラック バックテーマ)。


図1.2006年首相の靖国参拝に対して新聞各社の世論調査
(資料:Infoseek トラックバックテーマ)

この反対派の理由から見ても分かる通り、A級戦犯が祀ってあるという事が首相の靖国参拝問題の根元であると言っても良いだろう。

また「中韓両国との関係悪化」とあるが、これもA級戦犯が関わってくる。彼らは太平洋戦争時に大きな被害を受けた。その太平洋戦争の中心的指導者で あったA級戦犯が祀られている神社に、総理大臣という日本の代表が参拝するという事は許しがたい事実なのである。しかし中韓両国はこの問題を外交カードと して利用していないともいえない。例えば首脳会談延期、常任理事国の不支持など、その度に靖国問題が取沙汰されて来た。また北朝鮮による日本人拉致に関し て北朝鮮とのパイプ役であると言われている中国が靖国参拝問題を出してきたら速急に進めなければいけないこのような他の問題も滞ってしまう事になる。この ように「中韓両国との関係悪化」だけでなく他の問題も深刻化してしまう前にも、この靖国参拝問題に早く終止符を打ちたい。

4.靖国参拝問題の解決策

そ こで、この問題を解決させようと様々な案が出てきている。その中に「A級戦犯分祀」という案がある。これは首相の靖国参拝問題と根幹とも言えるA級戦犯 14名を靖国神社から分祀しようという動きだ。しかし、実際この案はいくつかの問題点がある。まず第一に、神社本庁が分祀に難色を示しているということ だ。実際にこのような記事がある。以下にニュース記事の抜粋をあげる。
神道の見解では、分祀とは、ある神社の祭神をロウソクの火を移すように別の神社でも祭ることを指し、俗に言う分祀は神道 の教学の「廃祀」にあたる。本庁の見解では、靖国からA級戦犯14柱の御霊を別に移すには、246万柱余すべてをいったん廃祀することになるため、実際に は不可能となる。井上教授は「分祀は理論上あるが、神社本庁がやらないと言えば、それが教学、という世界だから」と語る(2006年 8月 7日 毎日新聞)。
つまり神社側の見解は魂の分祀は神道の教義上、ほぼ不可能であるという事だ。

そして もう一つの問題点とは、A級戦犯を分祀したとしても先ほども述べた政教分離の原則から考えると全く問題解決にはならないという点である。つまり首相が特定 の宗教施設に参拝する限り、どんな解決策を講じようとも首相は違憲の立場であり続けるということである。また、国が神社本庁に直接注文を申し入れることも この原則に違反する恐れがあるという非常にややこしい話になってしまうのである。

このように、神道の教義や政教分離の原則が絡んでくるため「A級戦犯分祀」は困難、もしくはかなりの時間を要し、問題が長期化する恐れがあるのだ。これらの問題をふまえ、新たに政府から提案されたのが「国立追悼施設建設」である。以下にニュース記事をあげる。
新たな戦没者追悼施設のあり方について検討する超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」の発起人会が28日 昼、国会内で行われ、呼びかけ人の自民党の山崎拓前副総裁、公明党の冬柴鉄三、民主党の鳩山由紀夫両幹事長ら、3党から発起人14人が初めて集まった。山 崎氏を会長とする役員人事を固め、発起人が手分して3党から100人程度の入会者を募ることなど、運営方針について確認した。設立総会は11月9日に内定 し、福田康夫官房長官(当時)の私的諮問機関が2002年12月にまとめた国立追悼施設建設の必要性を示す提言をもとに、勉強会を行うとしている (2005年10月 28日 livedoor ニュース)。
つまり、靖国神社とは別にアメリカのアーリントン墓地の様な国立の無宗教の追悼施設をつくり、誰もが祈りを捧げることが出来る環境を作ろうという提案だ。

アーリントン国立墓地とは国立の戦没者慰霊施設である。1864年に、南北戦争の戦死者のための墓地として造られ、現在でも戦死者やテロ犠牲者、か のJ.Fケネディー大統領などのようなアメリカのために尽くした人物が埋葬されている。設立当初から現在まで,国立墓地として,国家によって管理されてい る追悼施設なのである。埋葬式は希望者の宗教・宗派に応じて行われる。もちろん無宗教の者には、その希望に沿った埋葬を行っている。アーリントン墓地関係 者は、ユダヤ・キリスト教的伝統の宗教だけでなく、イスラム、仏教などによる埋葬にも応えると語っている。つまり、宗教に対して同等の扱いをするというス タンスなのである。

小泉前首相も2006年6月にアーリントン墓地を訪れ献花を行った。これに似た施設を日本にも造れば、政教分離に違反す ることもない上、この様に外国の代表者も何の問題もなく訪れたりと、誰もが皆平和への祈りを捧げることが出来るのである。以上の事から考えると、「国立追 悼施設建設」今のところ最も有効な解決法ではないだろうか。

実は日本にこのアーリントン墓地に似た国立無宗教施設が存在する。千鳥ヶ淵戦没 者墓苑である。千鳥ヶ淵戦没者墓苑とは1959年に造られた第二次世界大戦時に海外で死亡した日本の軍人・一般人の遺骨を安置する、国立の無宗教施設であ る。ここまで見てみるとアメリカのアーリントン墓地と何ら変わりない様に見える。しかし、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は「遺族が不明で引き取り手のない骨」や「身 元不詳のため遺族に引き渡されなかった骨」を安置する、いわゆる「無名戦士の墓」なのである。そのため、今まで千鳥ヶ淵戦没者墓苑は靖国神社に押されるか たちで、あまり注目を集める事がなかった。

しかしここにきて、国立無宗教施設を新たに造るのであれば、この千鳥ヶ淵追悼墓苑を有効利用してはどうかという動きが出できている。例えばこのようなニュース記事がある。

小泉純一郎首相は26日、自民党の中川秀直政調会長が千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)の拡充を先に首相に提案した 際に「政府の資産売却を考えるとき、土地を民間に売却するだけでなく公園にしたり有効利用も考えてほしい」と指示したことを明らかにした。首相官邸で記者 団の質問に答えた(NIKKEI.NET ニュース 2006年 6月 27日)。

千鳥ヶ淵追悼墓苑の有効利用 は画期的な案であろう。しかし、千鳥ヶ淵に無宗教として新たに魂を移すとなると、その家族の信仰を国が決めてしまうことにならないだろうか。つまり国家に よる個人の信仰の干渉になってしまうのである。現在日本における国立墓苑についての議論は政治色が強く、人間にとっての宗教理念を尊重するものにはなって いない。また日本には古代から続いてきた、今や生活の一部となっている「神道」という伝統的民族精神が存在している。この様なことも含めて、国立追悼施設 に新たに魂を埋葬する場合には、十分な議論が必要となってくるだろう。

5.結論

基本的に、政治と宗教の問題を同じフィールドで考えてはならないと思う。何故ならそれぞれ成り立ってきた歴史的背景とい うものが全く違う上、特定の宗教に政治が介入すると、他の宗教を信じる人達に対して不利益を与え時には国までも滅ぼしてしまう危険があるからである。しか し靖国問題がここまで大きくなってしまったからには、強行な参拝は自粛し何らかの解決策を講じる他ないだろう。やはり最も有効な解決策はこの「国立追悼施 設建設」なのかもしれない。
靖国問題についてはこれからも様々な議論がなされるだろうが、いずれにせよ誰もが静かに平和への祈りを捧げる事の出来る環境が早く整って欲しい。それが戦没者にとっても一番の願いだろう。

参考資料
フリー百科事典 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/ (検索日2006年11月5日:政教分離原則,千鳥ヶ淵戦没者墓苑,A級戦犯,アーリントン国立追悼墓地,靖国神社)
Infoseekニューストラックバックテーマ 賛成?反対?靖国参拝 http://plaza.rakuten. co.jp/isnewstb/diary/200608170000/ (検索日2006年12月15日)
小泉総理インタビュー http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2006/08/15interview. html(検索日2006年12月15日)
毎 日インタラクティブ 靖国:「戦後」からどこへ/2 揺れる分祀否定論 教学の主柱「語れぬ」http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji /gyousei/yasukuni/news/20060807ddm 002040018000c.html(検索日12月10日)
日本共産党 靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑の違いは? http://www.jco.or.jp/faq_box/ 2001_06_20faq.html (検索日2006年11月5日)
NIKKEI.NET 記事「千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充で首相「有効利用を」」http://smartwoman.nikkei.co.jp/news/article.aspx?id=20060627n1005n1(検索日2006年12月10日)
Live door ニュース 記事「新追悼施設で有力議員が初会合」http://news.livedoor.com/ webapp/journal/cid_1462333/detai (検索日2006年12月15日)
辻雅之. All About 靖国の歴史、A級戦犯、首相参拝、中国からの批判……「靖国問題」基本的なQ&A
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050613A/index.htm(検索日2006年11月15日)
靖国神社(参拝)関連資料 松山大学 田村ゼミ http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/ ~tamura/kadai01.htm (検索日2006年12月15日)
YOMIURI ONLINE 靖国問題特集 http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6700/ (検索日2006年11月5日)

2006 基礎ゼミ・レポート (2007.1提出) M.Y.

M.Y.さん

死刑について

1.はじめに

最近ニュース等で凶悪な犯罪の為、死刑判決が 下ったという情報をよく目にする。2006年9月26日に奈良市女児殺人事件の小林薫被告、12月13日には大阪姉妹殺人事件の山地悠紀夫被告に死刑判決 が下された。2006年に最高裁判所で死刑判決が下った件数は16件にも及ぶ。どれも残虐で許しがたい犯罪である。このような様々な犯罪がある中でどのよ うな基準で刑を決めているのか、ふと疑問に思い何気なく調べていくうちに「死刑」に対する色々な制度や問題があることを知った。今までは「悪い犯人が死刑 になって良かった。」という程度の考えで自分には関係のないトピックだと感じていたが、命の重さ、大切さが見失われつつある今、知っておくべきことや考え ねばならないことがあるのではと思い今回まとめることにした。

2.死刑とは

「死刑」とは漢字からも解るように、「生命を絶つ刑罰」『広辞苑』である。つまり死に値するほどの重罪を犯した者に 下される刑だ。しかし、この刑の適用は国によって実に様々である。まず、「死に値するほどの重罪」とは、簡単に言えば大体が故意に殺人をした場合だろう。 また、処刑方法も日本は絞首刑だが、中国では致死薬注射、アフガニスタン,イランでは石打ち刑、サウジアラビア,イラクでは斬首、米国は州によって違うよ うだが、電気処刑、致死薬注射等と、どれもなかなか残酷な処刑方法である。電気処刑と絞首刑以外は一人の人が執行しているようだ。執行人は自分が殺人をし ているということがはっきり分かるが、精神に異常が起きたりしないのか疑問である。また、子どもの犯罪者に対する死刑の適用はどうなのかというと、国際人 権諸条約が18歳未満の者に死刑を宣告,処刑することを禁止している為、ほとんどの存置国はそれを守っている。しかし残念なことに、子どもの犯罪者を処刑 し続けている国も少数だが存在するのだ。例えば、中国、米国、パキスタン、イエメン、サウジアラビア、ナイジェリア、コンゴ民主共和国などである。 2006年5月には、イランで17歳の子ども犯罪者が処刑された。

そして、なにより重要な違いは、世界には死刑を廃止している国と存置して いる国があるということである。死刑廃止に向けた国際協定、すなわち国家が死刑制度を持たないようにする国際的な条約は現在4つ存在する。「市民的および 政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書」「死刑を廃止する人権に関する米州条約議定書」「人権および基本的自由の保護のための欧州条約の第6議定書 (欧州議定書)」「人権および基本的自由の保護のための欧州条約の第13議定書(欧州人権条約)」の4つで、そのような条約に批准または署名しているヨー ロッパなどの数多くの国々から、日本,アメリカなどのいくつかの先進国が批准していない事が批判され問題となっている。存置国と廃止国については次節でと りあげる。

3. 存置国と廃止国について

アムネスティ・インターナショナル*の情報では、2006年12月12日現在で日本が認めていない 独立国などを含む197カ国中、88カ国がすべての犯罪に対する死刑を廃止していて、11カ国が例外的な犯罪以外のすべての死刑を廃止している。法律上は 死刑を存置しているが、実際は過去10年以上死刑執行されていない事実上の死刑廃止国は29カ国存在する。計128カ国が死刑を廃止していることになるの だ。反対に死刑を存置している国は69カ国あり実際に執行している。グラフからも分かるように、法律上存在するが十年以上執行していない国も含め、廃止国 は全体の65%にも及ぶのだ(図1参照)。日本に住んでいて死刑制度が当たり前だと思っていた私には、驚くべき数字であった。


図1.死刑における存置国と廃止国の割合

4. 廃止論と存置論

廃止国と存置国にはそれぞれの理論がある。どのような理由を持って廃止あるいは存置しているのだろうか。廃 止論には大きく分けて二つに分かれる。一つは人道的な面から見た意見で、もう一つは刑罰の本質を考えての意見だ。①では廃止論を細かく説明し、②では存置 論を、廃止論に対しての反論として示す。

[1] 廃止の理由
人道的な面から見た意見
1. 死刑というのは野蛮かつ残虐な刑罰であり、人道上禁止すべきである。
2. 国民に殺人を禁止しながら、死刑という殺人を認めるのは矛盾であり、生命尊重に徹するなら許されない。
3. 国家が自ら与えることのできない生命を奪うことは許されない。

刑罰の本質論に関する意見
4.死刑は犯人改善の余地がなく、教育の理念に反する。
5.執行時の改悛など刑罰の裏づけとなる事柄自体には変化がありえるので、それに対応できない死刑は刑罰として不適切である。
6.死刑の一般予防機能に関連して、死刑は犯罪者に対しても一般人に対しても威嚇力がない。
7.誤判の場合の回復不可能性。
(『刑事政策のすすめ‐法学的犯罪学‐』p.57)
 
こ れらの理由を見てみると、1.2.3.の人道的な面から見た意見には賛成である。しかし、刑罰の本質論に関する意見の4.犯人改善の余地についてはあまり 納得がいかない。そもそも殺人犯を改善できる確率はどれほどあるのだろう。快楽殺人犯などは、根本から普通ではないのだ。ある種、病気とも言えるだろう。 最後まで反省しないで処刑される犯罪人もいる。そのような人たちを善人に変えることは可能なのだろうか。7.の誤判の件はその通りだ。映画でもそのような 話題をとりあげた「グリーンマイル」、「ショーシャンクの空に」や「13階段」などの作品が存在するのだから、重大な問題なのではないだろうか。

[2] 存置の理由
廃止論に対しての反論
1.2.に関しては生命を奪った犯罪こそ非人道的である。
3.に対しては、社会契約説的立場からも死刑の正当性は論証される。
4.5.6.にたいしては、社会感情の満足がはかられるべきである。
7.については死刑のみの問題ではない。
(『刑事政策のすすめ‐法学的犯罪学‐』p.57)

この反論に対して、1.2.の考えは、死刑か犯罪のどちらが非人道的かということは個人の考えであって、両方とも殺人には変わりないのだか ら比べるのがおかしいのではと感じる。7.は生命が関わっている刑は死刑しかなく、極刑とされているのだから、かなりの問題点として考えるべきである。そ して何よりキーポイントになるのではと感じたのが、4.5.6.だ。もしも自分が被害者の親族などであるとすれば、この理由のみで死刑の存置に賛成だろ う。死刑がなければ犯人は私たちの払っている税金で生活することになるのだ。反省しているならまだ良いが、反省するどころか殺人をしたときの快楽が忘れら れないなどと言っている者に関しては許せるはずもなく、一生憎んだままだろう。心が安らぐ時など一瞬もなさそうである。

もう一つ疑問に思っ たのは、死刑を廃止して犯罪が増えないのかということだ。アムネスティ・インターンナショナルの調べでは、カナダが実際に死刑を廃止する前と廃止してから の殺人率を出しているが、人口10万人あたりの殺人率は死刑を廃止した年の前年の1975年の3.09件のピーク時から、1980年には2.41件に低下 し、その後もさらに減少の傾向にあると示している。国によって相違があるかもしれないが、この例から考えると問題はなさそうだ。

5. 日本の被告人の現状と人権問題

死刑廃止国際条約の批准を求める「フォーラム90」というサイト内に「隠されている 日本の現状」というページがあった。それを読んでいると、どうやら現在の日本の死刑制度には私たちの知らない事実が多々存在するようだ。日本人として知っ ておくべき情報であったので以下でまとめ、考えたいと思う。

現在の日本には死刑制度がある。死刑判決が確定するまでに逮捕,裁判とあり、取 調べが行われるわけだが、ほとんどの逮捕者は十分な法的援助を受けることなく一人で長時間立ち向かわなければならないようだ。多くの被疑者は警察からの圧 力などに耐え切れず警察の強引な供述調書作成に応じ、本当は傷害致死なのに殺意があったことにされたり、突発的に殺してしまったのに計画していたことにさ れたりして、不利な自白が作り上げられるのだ。

裁判中、被告人は拘置所に入れられ保釈は認められない。独居房は狭く流し台,便器,寝具,机 などがあり、拘置所の規則によって室内を自由に動くことも許されないようだ。その上、起床から就寝まで拘置所のタイムスケジュールにそって生活しなければ ならず、食事、入浴、面会など様々な制限があるのだ。まだ有罪判決が出ていないのに、このような過酷な状況におかれるということは全く収容者の人権を無視 していることになるのではないだろうか。収容者は運動不足,ビタミン不足などから、腰痛,虫歯,歯槽膿漏,視力減退,拘禁ノイローゼなどになることがあ る。そんな酷い症状になった収容者が無実であったら大問題である。

しかし確定後はもっと凄まじい。制限は更に厳しくなる為、上記で挙げた症状は悪化することもあるようで、失明,歩行困難,失語症,精神障害などを引 き起こす死刑囚もいる。そんな重症であっても病院に送られることはめったになく、もちろん治療も十分に行われないのだ。ほとんどの死刑囚が死刑執行まで 24時間カメラで監視された独居房で生活する。執行の日にちは誰にも知らされず、朝、突然に「これから死刑を執行する。」と告げられるのだ。いつ執行され るか分からず毎日脅えながらの生活はまさに生き地獄だ。

死刑執行の流れは、まず朝に執行を告げられてから処刑所に連れて行かれ、数分間の遺 書を書く時間が与えられるそうだ。それが終わると、後ろ手に手錠をかけられ、目隠しをされ、床板が二つに割れる処刑台に立たされる。そして膝を縛られ、同 時に首にロープがかけられる。合図で床板が開き、死刑囚は落下し絶滅するまで地上15センチの空中に吊り下げられたままになる。下には医師が待機しており 生死の確認をするようで、死ぬまでに約20分かかるといわれている。

執行後、家族に連絡される。家族は遺体を引き取ることもできるが大半は引き取られないようだ。
死刑が執行されるまでこのような流れになっているが、何とも言えぬ感情がわいてくる。それだけ悪いことをしたとはいえ、あまりにも人権を無視しすぎ ではないだろうか。人としてではなく獣のような扱いで、残虐な殺人事件とそう変わらない。死刑囚に被害者と同じ苦しみを与えることで罪滅ぼしをさせるとい うことだろうが、その考えはどうかと思う。私は被害者の遺族になったこともないし、勿論、被害者になったこともない。しかし、この現実を見て、こんなこと で傷は癒えるだろうか、死刑をすることに意味はあるのだろうかと考えなおすようになった。

6. 最後に

死刑を廃止した方が良いのか、存置した方が良いのか、はっきりとどちらか決めるのは非常に困難な問題であるが、色々 なことを調べた結果やはり死刑は良いものではなく、できればない方が良いと考える。しかし死刑にならないとどうしようもない犯罪者も存在する可能性も否定 できないので、難しいだろうが、例外を除いて廃止するのが一番良い方法なのではないだろうか。今回調べたことで日本の死刑制度について知り、ショックを受 けた面もあったがこれからの日本の人権問題について考えるきっかけとなった。世界ではどんどん死刑を廃止する傾向があり国際条約も存在するのだから、もっ と国民一人ひとりが考えるべき問題なのだろう。これからも人事だと思わず真剣に命の大切さを考えていこうと思う。

*アムネスティ・インターナショナル:投獄された政治犯の釈放、死刑・拷問の廃止、亡命者の保護などを目的とする国際組織。
参考,引用文献
前野育三、前田忠弘、松原英世、平山真理 2003.
『刑事政策のすすめ‐法学的犯罪学-』 法律文化社

参考ウェブサイト
「アムネスティ・インターナショナル日本 死刑廃止ネットワークセンター」2006年11月1日23時31分http://homepage2.nifty.com/shihai/index.html 
「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」2006年11月20日22時34分http://www.jca.apc.org/stop-shikei/index.html 

2006 基礎ゼミ・レポート (2007.1提出) M.Y.

M.Y.さん

流行

1. はじめに

流行は私達が日々生活している中で目まぐるしく変化し ている。ファッションや思想等、時代とともにその変化が止むことはない。今回は以下の、流行とは何なのか、ファッションにおける流行は誰が決めているの か、なぜ流行は発生するのかという3点についてまとめていきたい。

2. 流行とは何なのか

「流行」という言葉は様々な意味を持っており、例えば英語の訳語を見てみると、まず、Mode, Trend, Fad, Fashionと訳されることが多い。これは、ある社会のある時点で浸透、普及している思考や表現の形式を指しており、特にファッション(和製英語)に関 しては、服飾や髪型、化粧のスタイル(装い)のことを言う。
また、epidemic, pandemicは、ある感染症が一時的に多発することを指す流行の訳語で、その感染症を「流行性」があると言い、「はやりやまい」と呼ぶ。
日本語の「流行」の語源は、物事が河の流れる様のごとく世間に流布する意味を表す漢語で、徳の広まることや、はやり病(疫病)が広まることを指した。日本においては『流行』は動詞の『はやる』と混同され、使用されるようになった。
また、松尾芭蕉の俳諧理論における「流行」は、時と共に移ろうことを意味する。この「流行」の対義語は「不易(いつまでも変わらないこと)」である。

流行の種類
流行には主に6つの種類、思考や表現の形式としての流行、思想や信仰における流行、美意識に関しての流行、生活用 品・服飾における流行、工業デザインの上での流行、そして感染症と呼ばれる流行性疾患があり、まずはじめに思考や表現の形式としての流行があげられる。流 行の展開過程は、その発生・成長から衰退・消滅までを、いくつかの段階から捉えることが出来る。

  • 潜在期:ある様式が生み出され、それがごく限られた人々に試行される時期
  • 発生期:試行過程を経て、新しい様式の存在が人々に知られ、同調者が現れる時期
  • 成長期:新しい様式に同調する人々の数が増加し、一斉に普及率が拡大していく時期
  • 成熟期:普及が最大の水準に達し、その伸びが鈍化していく時期
  • 衰退期:後発期に採用する人もいるが、それ以上に採用をやめる人の数が増える時期
  • 消滅期:採用する者が少なくなり、その様式が消滅していく時期

次に、思想や信仰においても流行が見られる。例えば、江戸時代のええじゃないかは元々あったお伊勢参りの風習が集団的熱狂状態となり、爆発的に流行した現象である。
ま た、美意識に関して、現代では流行に飛びつくのはまず若者、特に女性である。既成の価値観や規範意識と衝突することが多く、年輩者からは逸脱と見做されが ちである。だが、流行りが廃り始めたら本人達もなぜあのようなものに心を捉われていたのか説明出来なくなることが多い。過去の流行ではガングロ、竹の子 族、ジュリアナの扇子などがある。本人達も今となってはガングロメイクは「ダサい」と感じるのだろう。このガングロメイクを流行の展開過程に当てはめる と、潜在期は1998年頃、当時東京の渋谷センター街を中心に棲息していた女子高生達の間でガングロメイクが発案・試行されていた時期、発生期は彼女達を 中心にガングロメイクを施す女子高生が増えていった時期、成長期はガングロメイクがTVや雑誌等で大々的に取り上げられ、東京近郊だけではなく日本のあち らこちらでガングロメイクを楽しむ女子高生が急増した時期、成熟期はガングロメイクを楽しむ女子高生達が更に増える一方で、「肌に悪い」「ダサい」という 風に感じる女子高生も出てきた時期、衰退期は依然としてガングロメイクを施す女子高生も少なくはないが、彼女達の間で後に訪れる「美白ブーム」の前触れや 当時人気絶頂であった歌手・浜崎あゆみのメイクを真似する女子高生も現れた時期、消滅期は、ガングロメイクは彼女達の間で完全に「ダサい」ものとなり、次 の「美白ブーム」に乗る女子高生や浜崎あゆみのメイクを真似する女子高生が増えた時期となる。
生活用品・服飾での流行とは、ある一定の時期に非常に人気があり、人々の間で広く行き渡っている服飾の様式のことをいう。服飾デザインに関しては流 行の影響が大きく、これらは主に有名服飾デザイナーが作成したデザインが要素となっていることが多い。服装の流行現象には「刺激」と「飽き」の絶えざる繰 り返しがあると推察されている。
工業デザインの上にも流行が見られる。飛行機・船のデザインには速度を上げるため流線型が合理的であったが、流線型が流行した時代(未来派)には機能的な必然性のないものにもイメージ主体で流線型のデザインが用いられた。
感染症と呼ばれるコレラなどの流行性疾患は、はやりやまい等と称されている。過去に流行したものとしては、中世ヨーロッパのペスト、近代ではスペイン風邪などがある。

3. ファッションにおける流行は誰が決めているのか

毎年様々なファッションが生まれているが、ファッションを生み出しているの は現在でもファッションデザイナーの役割である。例えば、流行色についてはまず「JAFCA日本流行色センター(日本ファッション協会内に設置)」が二年 前から実シーズンの流行色をグループ化して選択・設定し、一年半前に発信する。また、「インターカラー」という流行色情報を発表する機関でも同じく実際の シーズンの約二年前に各国代表が集まり協議・決定している。ファッション業界や出版界はそれを参考に、流行色に沿った商品や企画を作成し、トレンドとして 消費者にアプローチ・発信している。
服装や髪型などの流行については、実シーズンの約6ヶ月前にニューヨーク、ロンドン、パリ、ミラノ、東 京の5大コレクションが開催される。そして、そこから雑誌、新聞等メディアでコレクションの情報が報道され一般に出回る(ファッションを生み出しているの はデザイナーですが、ファッションの流行もそれらが一般に出回り生まれることが多いので決めているのもデザイナー(等)(が多い)と言えると思います)。 これはある意味“意図的”に作られている流行だと言えるだろう。

4. なぜ流行は発生するのか

流行の特徴として は、社会のメンバーが一定の行動様式を少なくとも直接には各自の自発意志に基づいて模倣する結果として発生する。流行はファッションの様に人為的に作られ る場合もあるし、人々の全く予想していなかったものが流行り出す場合もあり、それらの現象は心理学的、社会学的な分析の対象となる。マスコミュニケーショ ンの発達した現代社会では、特に流行の周期が短くなっており、爆発的に流行したかと思えば、あっという間に陳腐化する、という現象も多く見られる。

1990年代
・コギャル
この語が本格的に使われ出したのは1996年ごろから。コギャルは茶 髪もしくは明るいメッシュを入れた髪で制服に身を包み、ルーズソックスにローファーを履く。派生して「中学生のギャル」のことをマゴギャルと呼ぶように なった。90年代末には高校を卒業したのに制服を着て街にくりだす「なんちゃってコギャル」も存在した。当時はコギャルブームと言っていいほどの流行ぶり で、ワイドショーや週刊誌を始めとしてメディアでは女子高生・コギャル特集が連日連夜と行われていた。当時は「ルーズソックス」などと絡めて多様なコギャ ル像が構築されて分岐していった。2007年現在では死語に近いが、一部高年齢層向け雑誌などでは使われていることもある。 なお語源については諸説ある。元々は、ロリっぽい雰囲気の(童顔の)ギャルを指すことが多かったが、本格的に使われ始めたのはディスコ・クラブである。エ ントランスチェックの黒服が、深夜入場不可能な女子高校生を区別するために用いるようになった用語であり、語源は「高校生のギャル」、略して「コーギャ ル」である。その後、「コーギャル」→「コギャル」の変化を経て、コ→子であるとの解釈が加わり、現在に至ったものと思われる。一方、1997年東京国際 フォーラムで開催された東京ストリート・スタイル展によると「成蹊や青山学院の付属出身者は中学校の時に既にギャルの真似をしてブランド品を持ったりディ スコに行ったり大人世界へデビューしているのに対して、高校から入学してきた生徒はまだデビュー前である事から、そのデビュー前の生徒を、付属出身者がコ ギャルと呼んだのがルーツと言われている。」とされている。
・アムラー(1996年)
安室奈美恵は1995年以降ソロシンガーとして活躍し、特に小室哲哉プロデュースの楽曲でミリオン セラーを含むメガヒットを連発し大ブレイクした。当時、10代の歌手としての記録を次々と塗り替え、若者のファッションリーダーにもなり、彼女をマネする 女性を“アムラー”(茶髪ロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツなど)と呼び、1996年の流行語になった。

・クールビズ(環境省:小池百合子)
夏 の職場環境において、過剰な冷房が環境問題の「地球温暖化」、「省エネルギー」(2005年に発効した京都議定書の影響が強い)の観点から重要問題とされ た。その一因として夏期のネクタイや背広が指摘された。このような服装は太陽光などの熱が体内にこもりやすく、冷房の設定温度を低くしがちになる。また、 そのような服装の男性が仕事をしやすい温度まで部屋を涼しくすることが、夏期に軽装となることの多い女性にとっては温度が低すぎてしまうために、結果とし て冷え性になるなど、健康を損ねてしまうことも問題とされた。メディアに登場するスーツを着用する著名人や多くの企業もこのクールビズを採用し、意図的に 作られた流行であったと言えるだろう。

2006年
・エビ売れ(蛯原友里)
蛯原友里は ヤングOLのライフスタイルを扱ったファッション誌『CanCam』の専属モデルとして活動中。雑誌の中で彼女がする可愛い系コーディネートは「エビちゃ んOL」と呼ばれ、エビちゃんOL特集は女子大生・OLを中心に人気を集めている。彼女が身につけている服や雑貨、出演しているCMの商品がよく売れてい るために「エビ売れ」という言葉が生まれた。
 
また、ブームについては何らかの商品や行事、大会と結びついて発生することが多い。多くはまず少数グループの中で評価され、次第にその周 囲に広まっていくというパターンであることが多い。マスコミで取り上げられる様になった頃には、当初のグループでは飽きられていることもあり、やがて誰で も知っている状態になると、ブームのピークは過ぎたといわれる場合もある。ピークを過ぎた後は、一般的なものとして世間に定着するか下火になって沈静化す るかの過程を辿る。そして忘れ去られた頃にブームが再燃する場合もある。

1945年以降のブーム
・ディスコブーム 
1980 年代中期から六本木周辺では、比較的大規模で豪華な内装を売り物にした高級ディスコが隆盛し、全国展開したNOVA21グループの麻布十番「マハラ ジャ」、青山「キング&クイーン」やパチンコ業界で有名な日拓系列の六本木「エリア」「シパンゴ」などが人気店になった。六本木周辺では「マハ・エリ時 代」、全国的には「マハラジャ全盛時代」と呼ばれた。また大和実業グループの日比谷「ラジオシティ」はOL・サラリーマン専門ディスコで、男性はスーツ・ ネクタイ着用の上、身分証明書(社員証)を提示しなければ入店出来ない店であり、一流企業の社章を着け店内で名刺を配る男性サラリーマンの光景がよく見られた。
この高級ディスコブームにより、 高校生や10代は子供としてドレスコードで締め出され新宿や渋谷などの一般大衆ディスコでしか遊ぶことが出来なくなった。そのおかげで六本木周辺などの ディスコは大人が安心して遊べる社交場となり、それまでのディスコは不良が集まる場所といったイメージを一新させ、一般の人達がお洒落して行く流行の発信 スポットとして認知されるようになった。こういった高級指向は、当時のバブル景気下の若者のセンスにもマッチしていた。女性のファッションはDCブランド が中心で「ピンキー&ダイアン」「ロペ」「ジュンコシマダ」などのボディコンやスーツにエルメスのスカーフやシャネルのチェーンベルトを巻きワンレンやロ ングソバージュにクリスチャン・ディオールの「プアゾン」をつけるのが定番スタイルで、男性は「コム・デ・ギャルソン」「ワイズ」「アーストンボラー ジュ」などのDCブランドスーツにシャネルの「アンテウス」をつけるのが人気だった。ちなみにディスコで「ジョルジオ・アルマーニ」などのイタリア系ブラ ンドスーツが流行るのは1980年代後半から1990年代前半になる。
・ガングロブーム
日焼けサロンなどで黒く焼いた顔、若しくは黒系のファンデーションの上に厚塗りの化粧を施したギャルファッ ションの一つ。「ガンガン黒い」の略称が語源とされている(顔黒から来ているという説もある)。『ガングロ』以上に黒くしている化粧の場合は『ゴングロ』 とも呼ばれる。なお、皮膚下のメラニン色素が多い地黒(じぐろ)の人は該当しない。頭髪は茶髪や金髪等に染色しているスタイルが多いが、部分的な色違いの 毛染めであるメッシュを施したスタイルもある。渋谷センター街を発祥とし、1999年に隆盛を極め、2000年に到来した白い肌が尊重される美白ブームに よって終焉を迎えたとされるが、ここ数年の間、毎年夏になると各地で見られ、細く長く続いているスタイルである。ただし、このスタイルの流行は地域差があ り、例えば関西地方においては、隆盛を極めた時期でさえも、街中でこのようなスタイルの少女を見かけることは稀であった。

・レトロブーム
レ トロとは、1950~1970年代くらいの、少し懐かしい流行を今風に取り入れたレトロファッションのこと。レトロは復古調や懐古趣味といった意味を持 つ。ファッションで使う場合は「レトロファッション」の意味で、過去の流行スタイルが新鮮なデザインになって再登場したものをいう。いわば、昔のものが再 評価されたという意味において、リバイバルされたファッションスタイルともいえる。社会に対して、価値観を反映したものともいえる。そんな昔のファッショ ンを取り入れたレトロファッションは、昔懐かしい心地よさを醸しながら、生き方の主張も表現している。

ブームを起こした商品
・ダッコちゃん
1960年7月に発売されて以降若い女性を中心にブーム の兆しが起こった。ぶら下がる機能を活かしてこの人形を腕にぶら下げて歩く女性が時折見られるようになった。マスコミが取材対象とする中で、この商品には 「ダッコちゃん」という愛称が与えられた。テレビに登場した結果ブームに火がつき、注文は大幅に増え、玩具店、デパートでは常に在庫切れとなった。デパー トが販売のために発行した整理券にダフ屋が登場したこともあったという。1960年末までに240万個が販売される大ヒット商品となり、製造元の宝ビニー ル工業所が株式会社タカラ(現:タカラトミー)となる基盤をつくった。

・ハローキティ
発表当初は女子児童向けキャラクターであったが、現在では「親子3代キティファン」というファンも少なくなく、幅広い世代に愛されている。キティグッズを身にまとった若者たちを指す「キティラー」という言葉も生まれた。
ま た、グッズは2004年時点で世界約60カ国で展開されており、日本国外にもファンが存在する。著名人ではヒルトン姉妹やキャメロン・ディアス、マライ ア・キャリー、リサ・ローブ、ブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラ等がキティファンとして知られる。日本国外では日本のサブカルチャーの代 表的存在の一つとして認識されている。日本では非常に著名なキャラクターであり、販売されたキティグッズは、文房具を中心として食品、パソコンから軽自動 車まで、日常生活のほぼ全領域に渡る。ただし、サンリオは酒・タバコ製品にはライセンスをしない方針をとっているため、この2種に関連する製品(キティ ウィスキー、キティタバコなど)は存在しない。例外としてソフトリカーや喫煙具(ライターやパイプ本体など)のみ許諾が行われることがあり、キティワイ ン、ジッポーライター(誕生30周年の2004年に限定品として発売)は実在する。
また、例として災害時に飛び交うデマ、流行語、ファッション、言語などは全て「ミーム」という仮想の主体を用いて説明出来る。ミーム(meme)と は、いわゆる文化的遺伝子で、文化内の「変異」が「遺伝(伝達)」的に承継され、「自然選択」される様子を進化になぞらえた時、遺伝子に相当する仮想の主 体である。例えば「ジーパンをはく」という風習が広がった過程をミームの視点から捉え直せば、「1840年代後半のアメリカで『ジーパンをはく』という ミームが突然変異により発生し、以後このミームは口コミ、商店でのディスプレイ、メディアなどを通して世界中の人々の脳あるいは心に数多くの自己の複製を 送り込むことに成功した。」(『ミーム・マシーンとしての私』)となり、「ガングロブーム」を捉え直すならば、「1998年頃渋谷センター街を発祥とし た、ギャルファッションの一つである『ガングロ』というミームが当時東京近郊の女子高生を中心に発生し、その後このミームは口コミ、雑誌やTVといったメ ディア等を中心に出回り日本中の女子高生達の脳あるいは心に数多くの自己の複製を送り込むことに成功した。」となる。このミームの訳語としては、模倣子、 摸伝子、意伝子がある。なぜ、人間だけが文化や流行をもつのか。「それは人間にだけ、模倣の能力があるからだ。」(『ミーム・マシーンとしての私』)

5. おわりに

流行とは、ただ単に若者達が有名人の真似をして発生しているものなのではなく、その時代背景や、経済状況、環境、遺伝子に相当する仮想の主体までもが大きく関係していた。また、意図的に作られている流行があるということもはじめて知った。

参考文献
・「現代用語の基礎知識 選」 ユーキャン新語・流行語大賞 全受賞記録  自由国民社  2006年12月21日
 http://www.jiyu.co.jp/singo/
・【ファッション・トリビア】ファッションに関するニュース&いまさら聞けないファッション用語 2006年12月21日
 http://www.fashion-j.com/mt/
・『ミーム・マシーンとしての私』 リチャード・ドーキンス (スーザン・ブラックモア著 垂水雄二訳) 草思社 2000年
・YAHOO!JAPAN 知恵袋  ファッションの流行や流行の色を決めるのは、誰が決めているのですか? 2006年12月1日
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?queId=5979869

2006 基礎ゼミ・レポート (2007.1提出) Y.Y.

Y.Y.さん

現在の海の状況~地球温暖化などによる被害~

1. はじめに

この100年の間に、海洋破壊は想像以上に進んでしまった。地球温暖化、海洋汚染、そして急速な技術進歩による過剰な漁業により、海はそこに棲む海 洋生物を維持することができなくなりつつある。海に頼って生きる私たちは取り返しの付かない状況になる前に、解決にむけて動き出さなければならない。 そこで私は現在問題になっている様々な問題について調べた。

2. 絶滅への危機

海にはさまざまな種の生き物が棲んでいる。そのサイズもまた、顕微鏡でなければ見えないような小さなプランクトンから大きなクジラにまで及んでい る。 気候の変化だけでなく、生活排水などからの海水汚染、車の排気ガスやエアコンの使いすぎなどからの大量の二酸化炭素の排出、このような人間が引き起こして いる破壊的な影響によって、タンカー事故でのラッコ、野鳥、クジラの大量死、サンゴの白色化問題などさまざまな問題が発生している。

さまざまな問題

〈1〉気候変動
海 とそこに棲む生物もまた、気候の変化と地球温暖化の影響を受けている。科学者は地球温暖化により海水温度が上昇し、それに伴い海面が上昇し海流を変化させ ていると指摘している。海水温上昇は、すべての海洋生物に影響を与えている。彼らの中には海水温上昇など環境が変わると、生き延びることができなくなるも のもいる。 海水温上昇の影響はすでに目に見えるものとなってきた。
例えば、最近広範囲で確認されているサンゴの白化現象(白くなり死んでしまう現象)は海水温の上昇が原因であると考えられている。

(1)白化前      (2)白化中        (3)白化後

   
図1 サンゴの白化 参照(http://coral.s5.com/cb-j-more.htm)

〈2〉汚染
汚染の中でも最も目立つのはタンカー事故によって起こされる重油汚染だろう。海面を覆う油膜、一変した海岸の光景。しかし、海洋 汚染全体を考えると、タンカー事故の影響はごく小さなものでしかない。毎日垂れ流される生活廃水、工業排水、ゴミ捨て場からの漏水、都市産業排水、事故や 爆発による様々な化学物質の流出、核燃料などの海洋投棄、多量の肥料や農薬を含む農業排水、発電所などの温排水、放射性物質の排出の影響は計り知れない。
海を汚染している物質のうち、陸から海に入る汚染物質は44%程度、大気を通じての汚染は33%と推定されている。一方、船舶などの海運による汚染は12%程度であると計算されている。

★海鳥の救護活動

図2 参照(http://www.arrobaspain.com/tokusyu/tokusyu4-galicia.shtml)
 
図3 代表的な油流出事故による水鳥の被害 参照(http://www.wrvj.org/)
船名 / 発生年 / 国 / 流出量(トン) / 保護数(羽)
ナホトカ / 1997 / 日本 / 5304 / 1315
エリカ / 1999 / フランス / 12000 / 77000
トレジャー / 2000 / 南ア / 1300 / 43000
プレステージ / 2002 / スペイン / 22500 / 23181

〈3〉海面上昇
私たちが現在まで放出した温室効果ガスと、将来、放出するであろう温室効果ガスによって、世界の平均海面は過去100年間に 地球全体の平均気温は0.3度~0.6度上昇し、これだけ気温が上がっただけで、海面は10~35センチも上昇したという。海面が上昇するのは、気温が高 くなるのにともなって水温も高くなり海水が膨張するのと、極地の氷が溶けて海水の量そのものが増えるためである。
予測された海面上昇に よると、人間の生活域に多大な影響をもたらす。海岸地域の洪水や嵐による被害、海岸線の侵食、塩分による真水の汚染、農業地域での海岸沿いの湿地や防波島 の洪水、河口域の塩分濃度の上昇など、様々な問題が起こってしまう。日本では温暖化により海面が1m上昇すると、海面(満潮水位)以下の地域が2.7倍 (2,300km2)に広がり、人口410万人、資産109兆円が危険にさらされます。

島や海岸地域に住む人々にとって重要な資源である海岸や、真水、漁場、サンゴ礁や環礁など、また野生生物の生息域も絶滅の危機にさらされている。

〈4〉大規模漁業
最新式の設備を備えた巨大漁船は、魚の大群を早く正確に捉えることができる。工場のような巨大漁船団による大規模漁業は、 海の生産力の限界を超えてしまった。大きな魚が捕り尽くされると、その次に大きな魚種がターゲットとなり、それが獲り尽くされるとまた次に大きな魚種とい うように、次々と獲り尽くされていき、残っている魚種は、どんどん小さなものになっていく。

どんどん減少していく魚を、さらに多くの人々が取り合い、奪い合い、現在の海洋の危機を悪化させているのだ。

〈5〉混獲
今の漁法には膨大な無駄が伴ってしまう。 世界中で漁網に絡まって、年間30万頭ものクジラ、イルカが死んでいる。漁網は多くの海の生き物にとって生存をおびやかす脅威なのである。
図4 シャチの画像
                                
海の生物の生息環境を壊す漁獲方法として近年、深海底引き網漁が注目されている。これは、太古から生き続けてきた深海のサンゴの群落や、その他の繊細で未知の深海の海洋生態系全体を壊してしまう。

4. 解決法

これらの海が直面している問題から、わたしたちの海を守るためには今すぐにでも改善していかなければいけない。これからも豊かな海であり続け、豊富な海洋水産物が食べられるよう、人間と海との接し方を変えていくことが必要だ。

そのためには、世界の海の40パーセントを海洋保護区とする必要があると考られる。海洋保護区とは、陸地で言う「国立公園」のようなものであり、広域または 一部区域における人的活動(漁業やスキューバーダイビングなど)を規制し、海洋生物の保護をする区域のことだ。これは獲り過ぎによって減少した魚などの数 を回復するという目的もあり、私たちだけでなく、漁業者の人たちもその恩恵を受けることができる。
ほかにも私達にできることはないだろうか。例えば、温暖化を防ぐために二酸化炭素排出量を減らす。そのためには車の排気ガス量やエアコンの使用量を最小限にし、物を何でも無駄遣いせずできるだけリユースする。このような日ごろからの行いから改めていくべきだと思う。

4.結論

海 に住む野生動物は海洋汚染、温暖化などの影響で住むところをなくしどんどん減少しつつある。それをできるだけ早く食い止め、今以上に悪化しないよう心がけ ていきたい。人間と動物がもっと触れ合う機会を持ち、今以上に深い絆を作るべきだと思う。キレイなサンゴ、クジラやシャチなどの野生動物、いつも食べてい る魚などをもっと大切に思い、みんなで海をもとにキレイな状態に直していけたらなと私は願っている。

参考文献
図1 参照(http://coral.s5.com/cb-j-more.htm)
図2 参照(http://www.arrobaspain.com/tokusyu/tokusyu4-galicia.shtml)
図3 参照(http://www.wrvj.org/)
図4 参照(http://www.h5.dion.ne.jp/~gminami/orca/orca6.htm)

Mar 1, 2007

2006年度卒論について (2007.1提出)

M.Y.さん

<論文作成を通じての反省点、難しかったこと>

1. テーマの決め方

引 用などの作業にはいる前に、最初の時点ではおおまかに、「pride and prejudiceの作中で、同じ行動をとっても、人によっては高慢だと悪く言われることもあり、それは当人の性格上の欠点も関係しているかもしれない が、周囲の捉え方に左右されることも多いのではないか、それに関してダーシーを中心に会話から調べていきたい」と考えていました。しかし、最終的に何を明 らかにしたいのかを見出すまでに時間がかかりました。実際に、本文から会話を抜き出すにつれて、そこで初めて"pride"だと評価されることにおいてあ る共通点を見つけるにいたりました。それは、「対等感」と「人からプライドを持って当然だと思われる優れた点を持つこと」の2点でした。これらが分かって 初めて、「"too proud"か、"reasonably proud"かに評価を分けるその差はなにか調べる」という論文のテーマを決めることができ、本文から例として的確な会話を抜き出すこともできるようにな りました。これらの過程が難しかったことです。

2. 調査の仕方

私の場合、まず第一に、pride and prejudiceの和訳の本を1冊読み、そこから特にダーシー、ビングリー、コリンズの3人の発話を抜き出し、それに対して周囲がどういった評価をして いるのかも抜き出すといった作業をしました。ダーシーとビングリーに関しては、"too proud" か、"reasonably proud" かといった評価の対象になっている発話を抜き出し、コリンズに関しては、ダーシーが"too proud"だと評価される理由を立証するために、彼と同じように「対等さ」を感じさせないコリンズが、周囲からは"pride"に関する評価の対象にも されない理由を抜き出しました。これら本文からの抜き出し作業が非常に大変でした。的確な例を抜き出す為に、常に自分の論文の目的を忘れないようにするこ と、本文を読み進めながら、登場人物の心理描写を読み取っていくことが難しかったです。

3. 日本語の面

1つめ に、例文について説明を加える時、比喩的表現を使って説明した方が分かりやすいと思い、その表現を考えることが何度かありましたが、すぐに浮かんでくるほ ど知識が無かったので難しく感じました。もっと普段から、読書に勤しんでいればよかったとこれほど思わされたことはありません。そこが反省点だと思いま す。脳が絞りとられる感覚を何度も味わいました。2つめに、最終段階でのチェックで、先生からも指摘されましたが、助詞の使い方が簡単なようで難しかった です。何度も自分でチェックしてみても、間違っているところが見つかり苦労しました。3つめに、「論文らしく書く」ことが難しかったです。語彙力が足りな いので、難解な文章を考えるが大変でした。この点が自分のこれからの課題だと感じました。

2006年度卒論について (2007.1提出)

M.S.さん

卒業論文作成を通じて大変だったこと, 難しかったこと

1. 日本語

書き 言葉と話し言葉の区別ができていなかったので、接続詞の使い方や、文章の最後の“である”調の書き方に苦労しました。「である。」ばかりで文の最後が終わ らないように、書き方を工夫し、読んでいてしつこさが出ないよう注意しました。文中では、できるだけ口語にならないようにするため、文章によりマッチした 言葉を探す作業が難しかったです。しっくりこない単語は類義語をいくつか調べて当てはめ、より良い文章にするよう心掛けました。

2. 内容構成

焦 点を絞っていくことに一番苦労しました。資料の有無の理由もあって、題名と内容が徐々にずれていったからです。そのずれによって、結局は何が言いたいのか ということが曖昧になり、調べていくうちに内容が広くなっていったので、その修正が大変でした。また、章と章のつながりや流れを自然にし、スムーズに読め るよう作成することが難しかったです。文章を何度も入れ替えることによって、文章のつなぎも変えていかなければならなかったので混乱した所が多々ありまし た。
ページ数が多かったので、全体の流れを把握し、それぞれの内容が題名に沿って書かれているか、章ごとに文章がまとまっているかを、常に チェックしながら添削していくことが大変でした。論文の趣旨を見失わないように文章をまとめ、書いていくことの難しさを実感しました。

3. 文章作成

文章作成にあたって重要視したことは、常に客観的な目で読み返すことです。読み手を納得させるように書き、自分の 意見に賛同してもえるよう導くためには必要なことだと思いました。こうすることで、読み手によりわかりやすい文章にすることができるからです。一通り書き 終えたら、「本当にそうなのか」「どうしてそう言えるのか」と問いかけながら読み返し、疑問を持った文章の改善と、詳しい説明を入れるよう心掛けました。 しかし、これだけに囚われることなく全体のバランスを常に考え、短すぎず、且つくどすぎることなく文章を作成していくことが難しかったです。
ま た、資料や参考文献の文章で、論文内容と関係のある箇所に意味のわからない漢字や語句の入った文章を、噛み砕いて自分で理解し、分かり易く文章化する事が 難しかったです。自分ひとりの力で理解できない文章は、家族や友達の力を借りることで、より良い文章を作成することが出来ました。他人の力を借りること は、より良いものを作るために、とても必要なことだということを学びました。

4. 参考文献の書き方

日本の書物 の書き方は、形式が決まっていて分かりやすかったのに対し、紀要の中の論文の書き方は形式がわからなかったため、書き方がわからず悩みました。また、特に ホームページの資料で洋書の文献からきている場合、それが論文なのか書物なのかの区別ができなかったので、書き方に悩み苦労しました。

5. 先生へ

何 度も何度も時間を割いていただき、添削をしてくださって本当にありがとうございました。書いたら書きっぱなしで、自主添削もせず先生に添削をお願いし、先 生に甘えすぎたなぁと反省しています。また、余裕を持って卒論の作成しなかったため、先生のアドバイスをより多く取り入れられずに完成させてしまった自分 のだらしなさをとても反省しています。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

2006年度卒論について (2007.1提出)

I.S.さん

卒論作成の反省点

1. テーマ

3年のゼミ開始時点で、卒論制作を念頭において勉強するべきだったと思った。そうすれば、情報・資料収集も充分にでき、何よりも論文に対する考察が十分に深められると思った。1年かけて考えたテーマと考えを基に論文を作成することが望ましかった。

2. 論理的思考

論 文は感想文でも随筆でもない。論理的な思考で、エビデンスを基に自分の考えを立証していかなくてはいけない。しかし、既に発表されている他の論文をほとん ど読んだことがない状態で卒論を書き始めてしまったのが、現実がであった。私の卒論は、構成してある章と章のつながりはほとんどなく、自分の考察もあやふ やなまま、ただ参考文献を並べた、つぎはぎな感想文になってしまった。今回の卒論作成以前に、文学に限らずまずさまざまな論文を多く読んでおく必要があっ たと思う。そこから論証の効果的な方法を学び、論文と呼べるものにしなければならなかったと反省している。

3. 日本語力

自分では正しい日本語を話したり、書いたりできると思っていたが、それは大きな誤解であった。文がたびた びねじれを起こしたり、意味をなさない文章を書いていることがたびたびあり、そのげんじつに気づいた時は、かなりショックを受けた。美しい日本語を音読し たり、書き写したりと一見小学生の学習に見えることでも、始めるべきだと思った。

4. 英語力

英文科の学生なら、当然英語のテキストを読み、英語の多く資料を読み、引用することが基本であったと思う。しかしいつも和訳と日本の資料に頼っていた。胸をはって「英文科を卒業しました。」と言えるように、今後英語力を高めたい。

5. 引用

引用、参考文献の書き方が、難しく例を見ても完全に理解できなかった。英文論文についてもきちんと学ぶべきであった。

2006年度卒論について (2007.1提出)

E.M.さん

「卒論経験を通して」

今回の卒業論文の作成を通して、私は、「日本語の面において」、「参考文献・引用文献について」そして「文の組み立て方について」の三つが大変だったと感じた。そこで以下では、一つずつ詳しく見ていきたいと思う。

1. 日本語の面において

主 語と、動詞の主体が合わないことがあり、誰の動作なのかが曖昧になることが、何箇所かあった。また、助詞の使い方が不適切で、文の内容が理解しにくいとこ ろもあった。口語では、少々文が成立していなくても、相手には通じることが多いが、文語となると、きちんとした文章にしなければならず、苦労した。また、 同じ動作でも、違う動詞を使うことも苦労した。論文を書く上で、『述べる』など、多数使う動詞を他の言葉に直す時に、自分の少ないボキャブラリーでは、な かなか苦戦した。

2. 参考文献・引用文献について

使えそうな文献を見つけたが、どの部分を引用したら良いのか迷った。作者は、同じようなことを繰り返し述べているために、どの箇所が一番分かりやすく述べてあるのかを探すことに苦労した。
また、引用する部分が多すぎてしまい、引用部分を参考にし、自分の文章の中に入れこむ作業に苦労した。この場合、自分の文章であるため、作者の文章をそのまま使うことは出来ず、自分の意見に合わせていくことが難しかった。

3. 文の組み立て方について

文の順番を考えることが難しかった。文にはそれぞれ、例を挙げたり、問題を提起したり、まとめたりする役目があるため、文の構成がとても難しかった。文章の順番によっては、内容が飛び飛びになってしまい、理解し難い内容になってしまうこともあった。
また、次の文につながるような、言わば紹介文を入れなければならず、その文を考えるのに苦労した。私はただ、淡々と文章を並べており、つなぎの文を入れることに慣れていなかったので、難しかった。

以上で見てきたように、普段使わない言葉や言い回しを使うために、たくさんの工夫や下準備が必要であった。しかし私は、この卒業論文の作成経験を通して、これから社会で使うような方法や、材料を学べたと思う。この経験を生かしていきたいと思う。

2006年度卒論について (2007.1提出)

K.K.さん

卒論を作成する上で、大変だったこと・難しかったこと

1. 日本語について
2. パソコンについて
3. 内容構成について

1. 日本語について

私 は、卒業論文を書く上で非常に大変だと感じた点は、分かりやすく日本語を文章にすることです。簡単なように思えても、とても難しかったです。例えば、主語 と述語が一致していなかったり、句読点の打ち方、自分では分かっているつもりの文章でも、相手には全く言いたいことが伝わらないような文章を書いていたり しました。自分ではできたと思った論文も、人に読んでもらうことで。こんなに修正する部分があったのだと感じました。修正をされていく上で、私は相手に しっかりと自分が言いたいことを伝えられるような文章を書くように心がけてきました。論文は、人と会話するようなことは出来ません。文字だけで自分の言い たいことを伝えなければなりません。私は、論文とは読み手にどれだけ分かりやすく、また何を伝えたいのかを具体的に表現しなければならないものだと思いま した。

2. パソコンについて

私は、パソコンについてただ自分の書いた文章を打ち込むだけの簡単な作業だと思っていました。し かし、実際にはそんな、単純な事ではありませんでした、例えば、引用した文章をそろえるために使用するルーラーや、ページ番号のつけ方など、私は具体的に は知りませんでした。卒業論文を書く上では、これらの作業は欠かせないものだと思いました。卒業論文を作成していたからこそ、具体的な作業も理解すること ができ、また習得できた知識なので、これから社会に出て大いに使用していきたいと思います。そして、まだ知らない知識も多く増やしていきたいです。

3. 内容構成について

ま ず、章ごとにタイトルを決めて、そこから初めて内容を作り上げていくという作業につまずきました。容易に思える作業ですが、自分が何を伝えたいのか、また タイトルに沿って話が進められているのか、その両方を意識しながら書き上げていくのは難しかったです。一つの章を完成させるには話の流れがあり、その流れ をうまく書くことも出来ませんでした。しかし、一つのキーワードをもとにどんどん話を広げていくという基本が足りていないことに気づきました。1.の日本 語についてでも述べたように、自分だけが分かっている文章はいらず、全く何の情報もない読み手にどれだけ伝えたいことを理解してもらえるかが論文を書く上 で、大切なことだと思います。

2006年度卒論について (2007.1提出)

N.I. さん

○卒業論文作成にあたって大変だったこと・反省点○

・本を読むこと

論文 を書くにあたってのまず根本である、本を読むということ自体に苦戦しました。私は普段から活字をほとんど読まないので、本を読んで理解することが第一の難 関でした。知らない日本語や意味を違えて覚えていた言葉も多く、広辞苑で意味を調べながら読んでいきました。また、話の流れがすぐわからなくなり、一度読 んだところをまた読み直す、といったことも頻繁にしなければならなかったので大変でした。

・パソコン操作

フロッ ピーを使ったり、メールを送ったり、パソコンの操作が苦手なので卒論をタイプすることが大変でした。上書き保存されてなかったり、コピーができなかったり 先生にもたくさん迷惑をかけてしまいました。しかし今では、卒論をしたことでページ設定など、使い方も覚えられたのでこれからも役にたつのではないかと 思っています。

・話の流れ

自分の卒論の中で主張したいことなど、書きたいことは始めからしっかりと持っていたので、その点では特に悩む ことなく書けたような気がします。しかし、書いていくうちに自分の中でそのまま盛り上がってしまい、本来の話や自分の意見から脱線してしまっていることが しばしばありました。この論文で触れている内容であったり、最終的に言いたいことにつなげられるように、本来の目標を忘れないように心掛けることに苦労し ました。

・論文の形式

話の流れや文章がきっちり書けても、論文の正しい形式を守らないといけないことも、いままでの宿題などのレポートでは経験したことがなく苦戦しました。文章ができあがったあとも、引用の仕方や参考文献の書き方などを直すのにてこずりました。

・体調管理

卒論の締め切り2週間ほど前の追い込み時期に、ノロウイルスにかかってしまい悲惨でした。先生に論文の後半部 分をほぼ見せれないまま提出期限がきてしまいました。とりあえず期限に間に合ったのでよかったのですが、しっかりもっと前から計画してやっておけばよかっ たと反省しました。

2006年度卒論について (2007.1提出)

H.I.さん

卒業論文を書くにあたって、いままでに14000字もの文章を書いたことがなかったので、不安でした。最初はどのよう に書いていけばよいのか分からなかったのですが、書き方をプリントで分かりやすく説明して下さり、先輩達の卒業論文をプリントして下さったので、参考にな りよかったです。

卒業論文を書き終えて反省点がたくさんあります。まず、取り掛かるのが遅すぎたことです。何について書くのかを決 めるまでに時間を費やしてしまい、文章を書きはじめることがとても遅くなってしまいました。資料もあまり集めることができず、論文に内容の薄いものになっ た気がします。夏休みの間に何もしなかったために、冬休みにあわてて書いてしまいました。もっと早くからはじめていればよかったと思います。

難しかったことは、文と文をつなぐことです。自分が考えている文では、文章がつながっていないことがあり、意味の通らない文を書いてしまうことが多々ありました。もう一つは、日本語の文法です。長い文章を書いてみて、日本語の文法の弱さに改めて気づかされました。

書 き終えてよかったと思うことは、14000字を書くことができたことです。達成感を感じることができました。先生がつきっきりで、日本語を直して下さり、 文を考えてもろうなど、助けてもらってばかりだったけれど、それでも自分の論文を書くことができ、とてもうれしかったです。

2006年度卒論について (2007.1提出)

Y.D. さん

論文作成にあたって大変だったこと・難しかったこと

◎日本語の面

本から 引用した文を自分の言葉に言い換えて、文をつなげていくことが大変でした。文を直そうとしても、ただ単語や助詞を変えるだけだったので、なかなか自分の言 葉に言い換えることが出来ず、参考にした本の言葉をそのまま使ってしまうことが多かった。結果、話が急に違う方向にそれたりし、文がバラバラになっている ことが多く全体的にまとまっていなかった。文を自分の言葉に言い変えても、元の文とまったく内容が変わっていたりしていたので、またそこから考え直さない といけませんでした。
 また、グラフや表など、どこからの情報なのか文章で伝えるのが難しかった。言葉の表現が少し違うだけで文の内容が全く変わってしまうので、つなげ方にとても考えさせられました。

◎内容構成

私は、現代の日本とヴィクトリア朝時代の結婚観を調べたのですが、国が違う現代日本と昔のイギリスの結婚観なので、最後の結論をまとめるのが少し難しかったです。
 また、自分が書きたいと思った内容を本から色々抜き出してそこから、どうやって全体の構成を作っていけばいいのかを考えるのが大変だった。

◎調査の仕方

ヴィ クトリア朝時代の女性の結婚観の情報が現代日本の女性の結婚観より少なく、情報を集めることが大変だった。例えば、ヴィクトリア朝時代の女性は自立できて いなかったが、その中で女性はどんなことをしていたのか詳細を調べることが大変だった。また、参考にする本(特に日本人によって翻訳されている本)の文の 表現が難しく理解するのが大変だった。